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弘法大師・空海は,どのように葬られたか

空海の最期には,「入定」説と「入滅」説との対立がある。
医学的には,通常の僧侶と同様,生物学的な死(「入滅」)は自明であるが,
高野山の公式見解は,空海は「入定」された,すなわち,
死亡せず,自らの意思で,生死の境を超え弥勒出世の時まで,
衆生救済を目的として,「奥の院」にて
「永遠の瞑想」に入っているとされている(即身仏)。

 

では,空海は,自らの意思で「入定」されたのか?

史料・地理等の諸事情からも,「入定」説には無理があるといわざるを得ない。

その根拠は,次のとおり。

1.空海の最期をみとった直弟子の認識と,恵果和尚の葬儀。

空海の最期に関して,史料的価値が最も高いのは,

空海の最期をみとったであろう実恵(直弟子)が,
恵果和尚(空海の師)の墓前にその死(閉眼)を報告するために,
承和3年(836年)5月5日付けで,遣唐使(真済・真然)に託して,
青龍寺(中国)・義明のもとに送った書状であり,この書状には,
「和尚(空海)が,金剛峯寺という名の伽藍を置き,終焉の処とし,
 承和元年,都を去り,そこ(伽藍)で隠居した。
 承和二年の3月(「季春」),薪尽き火滅す。行年62。・・・ああ哀しいかな。
 実恵等,心は火を呑むように苦しく(「心は火を呑むに同じく」),・・・
 殉死することもままならず(「死滅することあたわず」),
 師の開かれた房舎を末永く守ることにした(「房を終焉に守る」)」
と書かれている。

この書状は,空海が書いた「恵果和尚の碑文」の文章が参考にされている。
すなわち,前掲・書状の「薪尽き火滅す」が,
「人間(じんかん)に示すに,薪の尽くるを以ってす」(碑文)に対応し
「心は火を呑むに同じく」(書状)が,
「荼蓼(とりょう)嗚咽(おえつ)して火を呑んで滅(き)えず」(碑文)に対応している。

「薪尽き火滅す」という表現は,薪が燃え尽きるように,静かな最期を迎えられた,
と理解される。
そして,空海は,留学中に恵果和尚の最期をみとり,葬儀に参列したことは疑いない
ところであるが,空海が書いた「恵果和尚の碑文」では,「薪の尽くるを以ってす」
に続く,恵果和尚の埋葬の場面では,
「腸(はらわた)を絶って(断腸の思いで)玉(和尚)を埋め
肝を爛(ただらか)にして(肝を焼かれる思いで)芝(和尚)を焼く。
とあり,恵果和尚が火葬にされた旨の記載がある。
であれば,静かに息を引き取った後,恵果和尚と同様,火葬にされたと考えるのが,
自然な流れであろう。

2.『続日本後記』(正史)巻四の記載

『続日本後記』第四の承和2年(835年)
3月丙寅(21日),「大僧都伝燈大法師位空海,紀伊国の禅居に終わる(死亡する)」
3月庚午(25日),「天皇の命令で(「勅して」),内舎人1人を派遣して,法師の喪を弔し
あわせて喪料を施す。・・・大使のお住まいは,山奥の僻地にあるから(「禅関僻左にして」),
訃報(「凶聞」)が届くのが遅かった(「晩く(おそく)伝ふ」)。
このため,使者を走らせて荼毘をお助けすることができなかった
(「使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず」)」
とある。「荼毘」とは,一般に「火葬」の意味であり,ここでも「火葬」と理解される
淳和天皇の勅命を受けた内舎人が,同天皇に対し,
「大師の火葬は既に終わっていました。」と報告したことが史実とされているのである。
「入定」したのであれば,「荼毘を相助くる」必要などあるまい。

なお,寛平七年(895年)に成立した,「聖宝」が撰者である
「贈大僧正空海和上伝記」には,「承和2年,(空海が)病に罹りて,金剛峯寺に隠居す。
 承和3年3月21日に死去する(「卒去す」)」とあり,続日本後記の卒伝に依拠している。

3.真然大徳・智泉大徳の各墓所の位置関係

高野山・第2代座主である真然大徳の最期について,『高野春秋編年輯録』巻第三では,
寛平三年(891年)の条で,「真然は,・・・病もなく忽然と死亡(「遷化」)された。
門人たちは,中院(今の龍光院)に埋葬した。89歳であった。」と記載されている。
そして,昭和63年11月,真然堂(真然の墓所)の解体修理に伴い,その基壇部の
発掘調査が行われたが,その結果,基壇中央部から,真然の骨臓器とみられる
猿投窯製作の「緑袖四足壺(りょくゆうしそくこ)」が発見された。

 

 

 

 

 

 

(左写真)http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169375

 

 

しかも,当該骨臓器が納められていた墓壙(ぼこう)は,埋蔵当初からのもので,
一度も移動していないことが確認された。
つまり,真然の「骨」が骨臓器に納められていたことが確認されている以上,真然は「火葬」された
ことは自明である。かつ,その骨壺のある真然堂は,金剛峯寺主殿の裏山の中腹にある。

一方,智泉大徳は,空海の甥(姉の子)にあたる高弟である。
天長2年(825年),37歳で高野山東南院にて入寂した時,空海は次の文を残している。

「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文」 (性霊集・巻8)

「哀(かな)しい哉,哀しい哉,哀(あわれ)が中の哀なり。
 悲しい哉,悲しい哉,悲(かなしみ)が中の悲なり。
 … …
 哀しい哉,哀しい哉,復(また)哀しい哉。
 悲しい哉,悲しい哉,重ねて悲しい哉。」

(ああ哀しいことよ。哀しいことよ。哀しいといってかえらぬこととは知りながら哀しい。
 ああ悲しいことよ。悲しいことよ。悲しいといってかえらぬこととは知りながら悲しい。)
 
この智泉大徳の廟も,高野山の伽藍東塔の東側,つまり金剛峯寺の境内にある。

要するに,空海の時代,高野山は原生林であり,「奥の院」は,金剛峯寺の壇上伽藍付近から4キロも東に位置していた。空海の高弟,真然大徳・智泉大徳の各墓所は,いずれも,金剛峯寺の境内・裏山にある。それにもかかわらず,そのような高弟達が「即身成仏」している地から,4キロも離れ,何処にあるかもわからぬ地(奥の院)で「入定」する理由が何処にあろうか。伽藍もなかった地に,さまざまの仏具・法具を運搬するには多くの困難を伴ったことは自明であろう。

 

4.逆に,「奥の院」に空海の廟があったことを確認できる史料の方は,
 12世紀前半よりも前に遡ることができない。

⑴ 昭和39年秋に出土した比丘尼法薬の埋経には,「奥の院」をもって
 「弘法大師入定の地」と記されているが,平安時代末,天永4年(1113年)の
 史料である。
⑵ 11世紀初めに成立した『御手印縁起』等に収録されている「高野山図」でも,
 「奥の院」の位置に「御入定所」との記載があるが,同時に,絵図に東塔が描かれており,
 東塔は天治元年(1124年)10月,鳥羽上皇が高野山に参詣した際に発願されたもの
 であるから,「高野山図」の成立は13世紀以降であろう。

上位1~4の諸事情を勘案すると,
江戸時代の学僧,道猷(どうゆう)阿闍梨が,「紀伊続風土記」に書き残している説,
すなわち,空海の廟は,「奥の院」ではなく,南谷宝積院(現在はない。)の地が最有力地であるという見解が,信ぴょう性を帯びてくるものと考えられる。

道猷説(南谷宝積院説)の根拠は,次の三つである。
①「奥の院」は,伽藍建立の地である伽藍からあまりにも遠隔の地である。
②南谷宝積院の地は「遍照岡」ともいい,「遍照」は大師の号であり,
 また,宝積院は,古くは「阿逸多院」といい,「阿逸多」は弥勒菩薩の梵語である。
③宝積院を再営したときの記録に,境内から1辺1丈の石棺が発掘されたが,
 恐れをなして,元のように埋めたとされている,である。

以上のこと,ないしは,道猷説(異説)の存在は,何を意味するか?

要するに,「宝積院」の存在は,高野山においては,「タブー」なのである。

高野山・第2代座主である真然大徳でさえもが,
立派な骨壺「緑袖四足壺(りょくゆうしそくこ)」に納められ,
伽藍建立の地にて埋葬されていたのである。
であれば,開祖・空海においては,真然のそれに優るとも劣らぬ立派な骨壺
(以下「大師の骨壺」という。)に骨を納め,
「伽藍建立の地にて」埋葬されていたはずである。
それを, 「入定」を演出するために,「大師の骨壺」(=入滅説の客観的証拠)を,
「奥の院」に移したか,何処か(多分,「宝積院」)に隠した輩(確信犯!)が,
高野山・歴代座主の中にいる!!

ということである。

<参考>
 武内孝善「弘法大師 伝承と史実」(朱鷺書房)