北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

著しく劣化した最高裁の決定に,健全な感覚の法律家は,…

岡口基一判事(東京高裁)に係る分限裁判で,
今般,最高裁大法廷が下した戒告決定を読んで,
「健全な法律感覚」をもった我々法律家の多くは,
「最高裁のあまりの劣化」に愕然とし,
こんな顔をしたに違いない。

最高裁判事の顔を一人一人思い浮かべ,
あなたがたは,
憲法の「表現の自由」について,どのような法理が形成されてきたか,
刑事訴訟法や,行政手続法が,どのような法理を背景として構築されてきたのか,
真面目に勉強したことがあるのですか??
と問いかけたくなった。

私は,これまでの経験から,
既に最高裁の決定に「幻滅」する機会が,他の法律家より多かった。
しかしながら,
今回の最高裁大法廷決定のごとき「天上天下唯我独尊」的決定を目の当たりにすると,
「最高裁だけは,おかしな判断はしないであろう」といった
「神話」を信じ込んできた「若き法曹関係者」においても,
その「神話」を「崩壊」させるに足る「衝撃」を受けたのではないだろうか。

鬱屈した思いから,
中村治朗・元最高裁判事のエッセイ集「裁判の世界を生きて」を拾い読みしつつ,読み返した。
その中から,目についた珠玉の言葉を,ブログ読者に若干紹介しておきたい。

「法律家は,裁判官であれ弁護士であれ,当事者又は依頼人という特定の他者の利害及び関心を理解しなければならない。そして,そのためには,いわばその者の立場に自らを置き,事物をそこから見るという心の働らき,すなわち共感(シンパシー)と呼ばれるものが必要である。」(269頁)

「裁判官は,共感超越との両者を併せ持つとともに,この両者の間の緊張に耐え,これを調整する能力を持つことが要求される。これがjudiciousnessと呼ばれる資質である。」(270頁)

「…裁判も,突きつめて言えば多かれ少なかれmuddling(模索的)の性格を脱することはできない。しかし,そうであるとしても,それがその場限りのいわゆるアド・ホックなものではなく,その間に整合性一貫性がなければならず,これへの顧慮を逸脱してはならない」(282頁)

裁判官が一個の極めて限られた個別具体的な問題の判断をする場合でも,そこにはその裁判官のもつ法律的素養,その思考の深さ広さといったものが自然とにじみ出てくるものではないか」(374頁)

 

以上の「健全な法律感覚」,尊敬してやまない過去の最高裁判事(中村判事)の各箴言と照らし合わせ,今回の最高裁大法廷決定を振り返ると,やはり,

今回の最高裁大法廷決定の補足意見にみられた
「the last storaw」の比喩これほど不適切な比喩はない。

 

【注】「the last storawとは,「ラクダの背に限度いっぱいの荷が載せられているときは,麦わら一本積み増しても,重みに耐えかねて背中が折れてしまうという話から,限界を超えさせるもの」の「例え」である。
 しかしながら,補足意見では,今回の分限裁判では,まさに「麦わら一本」「だけ」を審判の対象として「告知」され,「聴聞」手続が行われた,ということの理解が欠落している。「ラクダの背に限度いっぱいの荷」=「過去の行状」は,あくまでも「情状」であって,「麦わら一本」の懲戒処分相当性が是認された,という前提があってこそ初めて考慮できる「余事」に過ぎない(行政手続法14条参照)。この原理がわかっていない補足意見を書かれた最高裁判事3名は,憲法31条が要請する,刑事訴訟法ないし行政手続法の根本原理(訴因制度,「告知」と「聴聞」等といった手続的権利の趣旨)を,全く理解されていないのではないか,との批判を免れない。

 

瀬木比呂志先生(元判事)著「絶望の裁判所」(平成26年2月発行;講談社現代新書)には,「最近の(最高裁)大法廷の判断は,学者たちから理論面の脆弱さを指摘されることが多くなっている」との指摘がある(81頁)。われわれの世代の法曹からみれば,明らかに憲法違反の「裁判員制度」についても,最高裁大法廷は,「全員一致の合憲判決」(平成23年11月16日)をくだしたが,今回の「全員一致の戒告決定」も,ますます最高裁における「理論面の脆弱さ」と「著しい劣化」が強く印象づけられたものと思料される。

 

*追記

 本日(10月29日),どなたかが,私のこのブログを,フェイスブックか,ツイッター等で引用・拡散してくださったようで,急激にアクセス件数が増えた。もしも私のこのブログ読者の中に,心ある行政法学者か,マスコミ関係者がみえたら,今回の大法廷決定を「公法学会」はどのように受け止めたのか?,公法学会で議論する方向で働きかけていただきたい。私は,今回の大法廷決定は,司直たる最高裁が,アッと驚く「反則ワザ」を使うといった「歴史的暴挙」に出たものであり,各最高裁判事における行政法学の無知,ないしその素養の欠如を露呈したものだ,と憂慮する。