北口雅章法律事務所

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梅原猛先生!、貴説は、ちょっと間違ってませんか?

梅原猛先生が亡くなられて(平成31年1月12日)、はや4年以上経つ。
梅原先生は、お亡くなりになる前、円空・円空仏に非常な関心をもたれ、『歓喜する円空』という、極めて刺激的な著書を遺された。この著書のことで、梅原先生に、直接、いろいろお尋ねしたいことがあるが、今となっては、残念ながら、かなわない。

さて、梅原先生は、上記著書の中で、「円空の歌には、意味がはっきり分からないものの甚だ面白い歌が多くある」と述べられ、その筆頭に次の歌を紹介されている。

[原文]此身たに いらて其巻 返らん 
    菩薩に たよりもやせし[439]

 上記和歌について、梅原先生は、字数が合わないので、長谷川公茂氏(前円空学会理事長)に尋ねたところ、同氏によれば、円空の歌稿の左側かすかに「灰」という字が読めるので、

  此身だに いらで其巻 返(す)らん 
    灰の菩薩に たよりもやせし[439]

と読むべきだ、と聞き、上記長谷川説を前提に、「意味は甚だ難解である」とされた上で、上記和歌を次のように解釈されている(『歓喜する円空』322頁)。

「此身だにいらで」とは、「この身をさえ必要とせず」の意で、「灰の菩薩」にかかる。「灰の菩薩」とは「わが身を必要とせず自らを焼いて灰にした」という意味で、『法華経』の薬王菩薩の逸話(薬王菩薩は、自らの身体を焼いて仏を供養した、という)が下敷になっている。「『灰の菩薩』に便りをするという発想は甚だ面白い。…。まことに奇想であるが、『其巻返らん』という句の意味はよく分からない。」と。

しかしながら、僭越ながら、私は、上記の梅原説の理解は、誤っていると思う
(上記の記述に続けて、梅原先生が「(円空の和歌が)深い魅力を秘めている」と述べておられる点については、諸手を挙げて賛同するが。)

梅原説のどこがおかしいか?

 確かに、法華経・薬王菩薩本事品第二十三には、薬王菩薩が、前世、菩薩(一切衆生喜見菩薩)だったとき、如来・法門に対する供養(布施)のため、自己の身体に火を着け喜捨する、という話が出てくる。しかしながら、たとえ菩薩(=偉大な人)の身体であれ、人体を燃やした後に「灰」が残るという発想は、近現代人の発想であって、古代インド人(古代中国人)の発想ではない。古代インド人の発想のもとでは、菩薩・人体を燃やした後に遺るのは「骨」であって(「遺骨」、「仏舎利」という言葉がある)、「灰」ではないと考えられる。現に、法華経でも、菩薩(一切衆生喜見菩薩)が、如来(日月浄明徳如来)の入滅後、如来の身体に点火し、如来の身体が燃え尽きたのを知って、「そこに残った遺骨を手に取り、号泣・慟哭・悲嘆し」、如来の遺骨を骨壺に納めて、八万四千のストゥーパ(仏塔)を建てさせた、とある(植木雅俊訳「サンスクリット原典現代語訳・法華経・下」岩波書店187頁)。ちなみに、薬王菩薩が、自身の腕を喜捨して燃やした後も、真実の誓いをすると、その腕は元に戻った、とされている(同189頁)。
 もう一点、梅原説には誤解があると思う。第五句の「たよりもやせし」について、「便りをする」=「便りもや せ(為)し」と理解されているようであるが、私は、「便りも(燃)やせし」が正しいと思う

では、円空の本和歌は、どのように解釈すべきか?

  此身(これみ)だに いらで其巻(そのまき 返(す)らん 
    灰を菩薩に たより(便り)(燃)やせし[439]

 私は、「灰」という文字がかすかに読み取れるとの長谷川氏の言説を前提にするのであれば、灰の菩薩に」ではなく、灰を菩薩に」と理解すべきではないか、と思う。「其巻(そのまき)」=巻物になっている書簡=「(第五句の)たより」ではないか
[歌意]は、私(円空)自身でさえ、そのような内容のお手紙(「其巻」=「たより」)は、ご無用ですので、燃やして灰にして、返上いたします。菩薩様(=あたな様)に。
[解釈]衆生救済にあたっている本寺の法主(=「菩薩」)あたりから、円空にとって、なにやら気に入らないお便りが届いたのではないか。

(参照)弊ブログ「学者・梅原猛先生の逝去を悼む」(2019-01-16)
  https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=4817