北口雅章法律事務所

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「鵜飼祐充裁判長」への裁判批判を憂える  が・・・

「鵜飼祐充裁判長」の無罪判決が脚光・批判をあびている(下掲は「週刊新潮」)。

実の娘(当時19歳)と,その意に反して性交渉をした父親(被告人)が,
準強制性交罪に問われていたところ,このほど,
名古屋地裁岡崎支部鵜飼祐充裁判長)は,その父親に無罪判決を言い渡した。

被害者は,中学性の頃から,父親から性的虐待を受け,
父親の精神的支配下におかれ,かつ,被害者の意に反する性交であったこと
を裁判所が認めながら,「抵抗不能の状態だった」とは判断できない,
というのが無罪判決の理由のようだ。

「天声人語」も,「鵜飼判決」に批判的だ。

「筋論」からすれば,やはり有罪であろう。
が,裁判所が無罪判決をくだすには,それなりの合理的根拠があったはずだ。
したがって,証拠関係を直接精査しない限り,
第三者が軽々に無罪判決を批判できない
というのが一般法曹の良識的態度であろう。

「天声人語」は,「長く続いた虐待があり,
その延長線上に今回の事件もあるという事実を軽視した判決
ではないだろうか。」と批判する。

が,正に「その延長線上に今回の事件もある」と断定できるか,
その事実に合理的な疑いを生ずる余地がないと断定できるか否か,
懐疑的な裁判官が躊躇を覚えたとすれば,無罪判決もやむをえない,
という評価も一般論としては成り立ちうる。

真に,マスコミが批判するとおりであれば,控訴審が破棄するであろうから,
裁判長を「バカ」扱いして批判するのは早計であろう。

が,真の問題は,はたして,これだけ批判的な世論が巻き起こったところで,
名古屋高裁に,真に「公正な裁判」を期待できるか否かである。

 

実は,昔,裁判批判の是非が論議されたことがある。
いわゆる「松川事件」で,仙台高裁(第二審)の有罪判決に対し,
無罪を主張する論客(広津和郎,宇野浩二ら)による裁判批判が,
ジャーナリズム(中央公論,文藝春秋等)を通じて,一般大衆に訴えるという形で行われた。

このような裁判批判に対し,
亡中村治朗・最高裁判事は,そのエッセイ「裁判批判」の中で,
次のとおり述べておられる(『裁判の世界を生きて』442頁以下)。

曰く「仙台高裁の判決がまちがっているかどうかは,その法廷にあらわれたすべての証拠とてらしあわせてみなければ,判断できる筈のものではない。そうだとすれば,このような判断の資料に接することのない一般の人々にとって,批判者の批判が正しいか,批判される仙台高裁の判決が正しいかをみずから判断することは,まず不可能といってよい。殊に,ジャーナリズムを通じてこのような批判があらわれる場合は,一般読者は,批判者の批判のみをきき,他方の議論をきくチャンスをもたない。しかも,批判者が世間的に信頼されている人間であれば,人々は,議論そのもののメリットによってではなく,むしろ批判者その人に対する信頼からその批判を正しいと信じこむことになりやすい。これは,ある意味では,きわめて危険なことである。」

「ジャーナリズムにおける裁判批判が,これにより読者の共鳴を得て,そこに一種の世論をよび起こし,その力を借りて裁判所の決定を自分の正しいと信ずる方向にひっぱるという目的をもつものであるとしたら―,そういう世論に動かされる裁判が,真の意味において公正な正しい裁判を結果することに果たしてなるであろうか。

「…裁判官は,公開の法廷にあらわれた証拠と弁論に基づいてのみ事実を認定しなければならないということが,最も根本的な法則とされているこの法則に違反してなされた事実の認定は,たとえ結果的には正しくても,また世論に合致するところであったとしても,真の意味で公正な正しい裁判の基礎となることはできない。世論は,法廷にあらわれた証拠全体を直接に認識する立場にはないから,事実判断に関する世論なるものは,法廷にあらわれた証拠に基づく判断ということはできない。かような世論を考慮して事実認定をすることは,証拠に基づいてのみ事実を認定すべき裁判官の職責に反することなのである。

以上,引用おわり。

 

さて,日頃,「最高裁事務総局の顔色を気にしている」名古屋高裁刑事部が,
世論の批判を気にせず,「バカ判決『裁判長』」との汚名を覚悟のうえで,
「法廷にあらわれた証拠と弁論に基づいてのみ」事実を認定できるのか?
「大衆の予断的感情」を度外視して,「白紙」で証拠に接することができるのか?
心許ないもんだ。

 

*(ひとりごと)その1

 内部情報を仄聞し,「名古屋高裁部総括の面々」(H部長,T部長)を思い浮かべると…

 前記ブログを書き込んだときとは,いささか気分が変わった。

いずれの部に転んでも,前代未聞の(?),

 「 “ 一発結審 ”  文字どおり問答無用の “ 逆転有罪 ”」!!

 も,十分にありえそうだなぁ・・・(「被害者の精神鑑定を軽視した!」と衝かれれば,ボクが裁判官の立場にたっても,心証は反転するもんね。)。

 やけにマスコミが喧々としているなぁ(しかも,松川事件のときとは異なり,匿名のマスコミ記者が,筋論からして,真っ当な批判を浴びせている。)と思っていたが,ソーユー裏があったのね!

 

*(ひとりごと)その2

 名古屋高裁長官を通じて,控訴審の担当裁判長に対して,「天の声」(最高裁長官=最高裁事務総長)からの「善処せよ!」との指令(通達)が出るかもしれんなぁ。名張毒ブドウ酒事件・第7次再審請求事件で,名古屋高裁刑事1部が再審開始決定を出した後の,異議審(同高裁刑事2部)に向けられたプレッシャーと状況が似ているもんね。つまり,「裁判官の独立性」の今日的問題は,「大衆の予断的感情」による影響よりも,東方向(最高裁方面)からの「天の声」かもしれないな。

*(ひとりごと)その3

 今の名古屋高裁管内=名古屋高検管内で「無罪判決」を言い渡すってことは,林眞琴・名古屋高検検事長と敵対することになるんだよね。ああ,嫌だ,嫌だ。

 

【関連ブログ】

(2019-06-06)「今回の「鵜飼祐充裁判官」の判決は,ちょっと重くないか?」

  https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=6216

 

*追記その1(令和元年10月29日)

昨日(令和元年10月28日),本件控訴審の第1回公判期日があった。

この関係でか,このブログに対するアクセス数がにわかに昨日から増えたので,若干コメントを追記しておきたい。

裁判所(刑事1部・H部長)が,検察側の鑑定人尋問を採用したようなので,ほぼ結論はみえた。

となると,検察側がメディアを焚きつけ,世論を味方につけるといった慣行ができると,今後,ますます第1審の刑事裁判官が「証拠よりも世論」を重視するといった「事勿れ主義」「事大主義」的な態度に出る可能性が高まるのではないか。私は裁判員裁判が始まった時点で,刑事弁護に見切りを付けたので,私の守備範囲からは離れたが,なんだかやるせない。

**追記その2(令和2年3月12日)

案の定の判決が出た。昨日かいたコメントは,

ブログ標題『「鵜飼祐充裁判長ら」がくだした無罪判決の行方』のとおりです。

「鵜飼祐充裁判長ら」がくだした無罪判決の行方