北口雅章法律事務所

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円空(ENKU)が木彫の神仏像を造顕した動機は何処にあったか。

円空仏については,いろいろな特徴を挙げることができるが,
代表的な特徴は次のとおり。

「慈愛」

如意輪観音:東山白山神社(岐阜県高山市)

「素朴」

聖観音:新長谷寺(岐阜県関市)

「異形」

善女龍王:妙喜堂(岐阜県下呂市)

「多作」

千面菩薩(一部):荒子観音寺(名古屋市中川区)
(撮影者:後藤英夫)

 

円空の「多作」は有名で,12万体もの神仏像を彫ったという説が通説である。
その根拠にはいろいろあるが,代表的な根拠は,円空上人の伝説を著述した,荒子観音寺(名古屋市中川区)所蔵の『浄海雑記』(全精筆)によると,「自ら十二万ノ仏軀を彫刻スル之大願ヲ発シ」云々との記述があることが根拠とされている。
しかしながら,12万体という数は,やはり疑わしい。
 『浄海雑記』は,安政5年(1858年)の著述であって,円空の没後163年の記述であるから,文字通り「伝説」の域を出ないであろうし,円空が,仏教の教理を極めた高僧であるならば,12万体という数に固執すること自体が「執着」となって,教理に反する上,過去数十年にわたる造顕数を逐一数え記録することが「物理的に」できるわけがないので,多分デマであろう。このことを大っぴらにブログで書くと,円空学会の一部からクレームが出てくるかもしれないが。

ともあれ,円空が,尋常でない多作の仏師であったことは,明治政府の「廃仏毀釈」政策による破壊活動を経た後も,わが東海地区を中心に,全国各地に円空仏が5300軀以上も,分布していることに照らしも明らかである。もっとも,円空の造仏活動自体の動機については,伝説的な人物であるが故に,様々な説が唱えられており,必ずしも一致した見解がある訳ではない。むしろ,円空仏の前記特徴,すなわち「慈悲」,「素朴」,「異形」といった特徴を並べてみただけでも,各造仏活動の動機が,常に一元的に一貫していたとも思えない。

しかしながら,文献的に考察するに,少なくとも次の2つの要素が,円空の造顕活動の動機となっていたことは疑う余地がない。

第1は,「地鎮」的な「供養」である。

 このことは,円空の生存時期(1632-1695)に,比較的近い時期に著された『飛州志』(1728-1745)― 当時,飛騨の代官に任命されてきた長谷川忠崇が,徳川吉宗の命令で,調査した地誌― の中に円空に関する見聞録が記録されているが,ここに,「空が来由を尋問ふに,敢て答えず。我,山岳に居て多年仏像を造り,その地神を供養するのみ。」(円空は「何処から来たのか」と問われても敢えて答えなかった。「私は,山岳にて長年仏像を造り,その地神を供養するだけだ。」と答えた。)といった記述がみられる。これは,かなり信憑性の高い伝記といえよう。
 この各地の神(=庶民の信仰の対象)の「供養」という動機は,円空仏の特徴として時に現れる「異形」(アミニズム,動物霊などの民間信仰を窺わせる)とも関連しているように思えてならない。この点については,いずれ別のブログで触れたい。

第2の造仏の動機は,庶民の魂の救済である。

 その神仏像をみただけで,しばし「憂き世」(苦しみの多い世の中)の苦しみから解放されたような気分になり,気持ちが安らぐ(和らぐ)ように,「慈愛に満ちた」神仏像を造ろう,というのがもともとの円空の動機ではなかったか。その理由は,円空仏が好きになる方々におかれては,誰もが皆,そのような気持ちを抱くこと自体で実証されているようにも思われるが,実は,円空自身が,そのような神仏像を企図して,造顕活動を続けていたことを窺わせる歌を残していたことに気づいた。これが,「円空上人歌集」(長谷川公茂編著)1332番の歌である。私の「解釈」とともに紹介すると,次のとおり。

 「作りおく 神の御形の円(まどか)なる 浮世を照らす 鏡成りけり」

(大意)私が木造彫刻で造顕した神仏像は,どれも「慈悲」にみちた円満な顔立ちをしている。これら神仏像を拝めば,きっとこの憂き世でも,あなたに光明をもたらす「鏡(ご神体)」と成ってくれよう。

これら動機は,「他利」ということで共通している。そして,これこそが円空にとっての修行(自利)でもあった,ということになる。