北口雅章法律事務所

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森戸事件の「黒幕」

先日、七戸克彦著「我妻栄の青春⑴~⑼」を読んだところ、森戸事件のことが書かれていた。

森戸事件のことは、高校時代に学んだ「日本史」の教科書にも出てくる。
現在、自宅の書棚にある、改訂版「詳説 日本史」(山川出版社)によると、
1920(大正9)年には、東京帝国大学助教授・森戸(もりと)辰男がロシアの無政府主義者クロポトキンの研究をとがめられて休職処分となった。」と一行言及されているだけであるが…。戦前は、「学問の自由」、「大学の自治」などなかったことがよく解る。

1.森戸事件の社会的背景

 森戸事件の社会的背景は、次のとおりである。
 1910(明治43)年の大逆事件(幸徳秋水ら社会主義運動からが「天皇暗殺を計画」したという大逆罪の有罪・死刑判決を受け、処刑された事件)を機に、社会主義者・無政府主義者らが大弾圧を受け(桂太郎内閣)、以後、社会主義運動は沈滞した。ところが、ロシア革命・米騒動(大正7年7月)を機に、再び、社会運動が勃興してきた。
 そして、吉野作造(東京帝国大学教授・政治史)が民本主義(「手段の民主性」を求める民主主義に対し、「結果の民主性」を求める)を唱え、その影響を受けた東京帝大の学生らが思想団体「新人会」を結成し(大正7年12月)、次第に労働運動・農民運動が興隆する中で森戸事件(大正9年1月)が起きた。治安維持法が成立(普通選挙の開始と同時)した1925(大正14)年よりも、約5年前のことである。
 当時、東京帝大内部では、上記「新人会」らの学内左翼運動に対抗して、大正8年2月、国粋主義・保守主義の立場から、上杉慎吉教授(東京帝大・憲法学)に私淑する学生らが、国体宣揚を目的として、政治団体「興国同志会」を結成していた。

2.森戸事件の概略

 大正8年12月、森戸辰男・助教授の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が有斐閣発行の雑誌「経済学研究」で発表された。これに対し、「興国同志会」らが、当該森戸論文について、学問研究ではなく、政治的「宣伝」であると云って噛みつき、文部省も、帝大総長に、当該雑誌の自主回収を勧告した。
 ところが、発禁処分前の自主回収では事が収まらず、文部省に指導のもと、帝大総長が、森戸助教授に陳謝弁明書と辞表の提出を促したが、森戸助教授がこれを拒否したため、経済学部教授会は、総長臨席の上、森戸助教授の休職処分を決定した。
 にもかかわらず、興国同志会の有志らは、総長、文部省次官を歴訪して、森戸助教授へのさらなる強い処分を要求し、大審院に検事総長(平沼騏一郎)を尋ねて、司法権の発動を要求した。かくて、森戸助教授は、新聞紙法42条の「朝憲紊乱」に当たるとして、禁固3月罰金70万円の刑が確定し、失職し、刑に服した。

3.首謀者(黒幕)は存在したか

 森戸事件については、「上杉慎吉(東京帝大・憲法教授)首謀者(黒幕)」説と、「一部学生の暴走」説との対立がある。
 現在の一法律家(私)の目からみれば、上杉慎吉・黒幕説が正しいに決まっている。
その理由は次のとおり。
⑴ 第1に、大正9年1月6日(雑誌発行直後)の時点で、文部省・局長が東京帝大総長を訪問し、既に内務省・法務省が森戸助教授の起訴に向けて始動していることを示唆し、森戸助教授の処遇について適切な指導をするよう勧告している。内務省・法務省に影響力を与えうるのは、東京帝大の教授クラスであろうが、当時の東大法学部の教授らは「今日こそ上杉博士が来たら、ウンととっちめてやらなくちゃ」などと気炎を吐いていたというのであるから、上杉慎吉・首謀者説が通説であった。
⑵ 第2に、興国同志会の有志等が、大審院に平沼検事総長を訪ねて、司法権の発動を要請した際、平沼検事総長は、「諸君は騒いではいけない。この問題は、既に法相(原敬、臨時首相と兼任)の指揮を仰いで、起訴することに決定しているから。」と答えたという。このように、検事総長(司法省・刑事局)への事実上の影響力を与えられるのは、上記⑴と同様、上杉慎吉教授を措いて外にいない。
⑶ 第3に、大正9年3月以降、上杉教授は、海外に逃亡するかのように、海外出張しているが、出張先のベルリンで「森戸事件をやったのは俺だ」と大勢の前で放言(自白)している、とのことである。

 当時、興国同志会に所属していた岸信介(後の首相、安倍晋三の祖父)は、「一部学生の暴走説」をとっている。岸は、自分は、興国同志会の有志らの右翼的行動を抑えて欲しいと上杉教授に相談した旨を証言しているが、(自身の首謀者説を否認に転じた)上杉慎吉をかばっているようにしかみえない。

 法律家の文章は、我ながら、理解しやすいが、その反面、どうしても無味乾燥な内容となってしまいがちだ。もっとも、長い論文から要点を拾い出して文章化してみると、その文章を書いている本人(私自身)は、頭の中がスッキリ整理されたような気分になれる。