北口雅章法律事務所

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一高・東京帝大の秀才は何故自死するに至ったのか?

我妻栄先生(民法学の大家)が、一高時代からの親友Kが青酸カリによって服毒自殺をしたことを悼んで編集した、遺稿集『身も魂も―金田一他人(K)遺稿』の中には、次のような『歌』(?)が出てくる。

身も魂も打ち込んだ
 俺のこの愛を
 疑ふのです、おん身は
……[略]……
きっときっと
 おん身は不幸になる
 俺の一念は一生おん身につく

この怨憎の念は尋常ではない。元代議士・鈴木寅彦氏(F)とその妻・志津(M)と間には、長女・隆子(A)二女・克子(B)美人姉妹がいたが(S家の人々)、Kは、大正6年10月、Bと婚約し(兄・京介の了解を得た正式なものであったらしい。)、同月から、S家で暮らしていた。KのBに対する上記心情は、一体、どのような背景と原因からくるものだったのか。

大正9年11月27日の讀賣新聞朝刊は、次のように報じた。
「26日午前10時、……鈴木寅彦氏方(S家)・同居(帝大講師文学市金田一京助氏の令弟)帝大独法科3年在学・金田一他人氏(25)は、劇薬青酸加里を多量に服毒して自殺を図り、苦悶中を家人に発見され、直ちに順天堂病院に入院せしめたが……午後1時頃遂に死亡した。」と。

KにBを引き合わせたのは、一高独法の2年先輩で、S家に寄寓していた水谷嘉吉(Y)であった。秀才・純情・好男子のKは、すぐにS家に受け入れられ(但し、Kについては、一部には、利己的打算・狡猾な「演技」ができるという否定的評価もあった。)、我妻ら「逝ける友を偲びて」(以下「我妻ら」)によれば、Kは、特にMから「生みの母以上の愛」をもって可愛いがられた、という。

ところが、その後、Kは「頭の不調」を訴えるようになり、大正7年5月末「乱視」の診断を受け、勉強を禁じられた。このため、Kは、同年6月の学期末試験を受けることができず、我妻=岸(信介)の学年から1年遅れることになった。もっとも、我妻らによれば、S家の生活が幸福に満ちていたため(?)、Kの「傷は余り大きなものとならずにすんだ」という。

その後、大正7年7月、大学を卒業したYは、就職先(安川財閥)の関係で九州に移り住んだが、A(S家長女)が、密かに、Yに心を寄せていた。そこで、Kは、Aとの仲立ちため、単身九州に出向き、同年11月Yをして、Aに求婚させるに至らしめた。
 ところが、Y・Aの結婚に、Mが猛反対し、Y・Bの仲も悪かった上、内情を知る友人(伊集院斉=相良徳三)によれば、ある事情(a)があったようだ(「Mの名誉のために、私は故意とそれを云うまい。」とある。)。結局、Y・Aは成婚に至らず、Aは「2日2晩泣き通した」という。しかし、我妻らによれば、MのKに対する愛情は変わらなかった、という。

ところが、大正8年末から翌9年正月にかけて、我妻・岸・Kらが、伊豆・土肥にて過ごし、帰郷するとS家のKに対する態度が一変していた。我妻らによると、Mが「冷淡路傍」の如くで、FもBも「勉強を口実に土肥で遊んできた」と誤解したかのごとく、冷酷で悪意・嫌悪感に満ち、Bまでもがよそよそしい態度をとるようになった、という。Kの方では、S家の人々がKに冷淡になったのは、AがYとの結婚話が破談になった腹いせに、KをYと同様、S家から追い出そうと画策しているものと思い込んだらしい。しかし、Aの性格は、その娘(作家・遠藤周作の妻)によれば、陰湿な奸計を弄するような人間ではない。

Kは、大正9年7月から9月の約3ヶ月間、高文試験の試験準備に集中するため、FとBの承諾のもと、その夏、友人とともに会津・猪苗代に出向いたが、この間に、事態はさらに悪化した。Kが友人(伊集院斉=相良徳三)に当てた手紙によれば、KがS家の2階で試験勉強をしていると、(家人が)「蓄音機と鳴らす。三味線を弾く。Bまで、一緒になって騒ぐのだ。Aの魔女め! 高文の試験が何だ! などなど聞こえよがしに怒鳴ってるのが聞こえて来る。悪人どもの寄り集まりだ。」と。七戸先生によれば、「S家が、(Kを)屋敷に寄宿させての見試し期間の後、Kに見切りをつけたものであって、一家の冷たい態度は、婚約解消の意向を察して自分から出て行ってくれ、との暗黙のシグナルであったように思われる」とのこと(「我妻栄の青春⑺」987頁)。

では、S家は、何故、「Kに見切りをつけた」のか?

その後、Kは、高文の筆記試験を2位で通過したが、10月下旬の口述試験で試験官と衝突してしまい、十何番で合格したらしい。相当優秀な成績であるが、それでも、Kにしてみれば、S家から婚約破棄の口実にされる、という想いがあったようだ。

兄・京助が、通夜の席で我妻らに語ったところによれば、決定的な破局は、Aの結婚式の2,3日後に起きたという。Kは、兄のもとへ『ふとしたことから、Bは烈しくKの言葉を抗拒した』と云って、顔色青ざめてやって来て、『……今度ばかりはとてもいけぬ。…今までとは反対に母様母様と母を呼んで母を楯に僕を防ごうとした。これは今までにない初めて見た態度だ。……』などという。そして、Kは、恩師・鳩山秀夫博士〈東京帝国大学法学部教授〉に宛てて、80頁ばかりの遺書の起稿に取りかかったという。

以上が、七戸克彦著「我妻栄の青春」に出てくる、Kの「婚約から破局まで」の要点事実である。この資料では、S家が、何故、「Kに見切りをつけた」のかが書かれていない。また、Kの人柄・行状に関して、何らかの決定的な落ち度と責められるようなエピソードも、全く見当たらないようにも思われる。

したがって、一高・東京帝大の秀才にして、高等文官試験にも優秀な成績で合格し、恩師・鳩山秀夫博士〈東京帝国大学法学部教授〉に宛てて遺書を残す程のレベルの俊英を、何故、S家=Bが受け容れず、Kの片想いの状態で、婚約解消に至ったのか?といえば、あとは、想像と推理で空白を埋めるしかない

そこで、つらつら考えるに、Kの完璧主義・潔癖・一途な性格に、Bの方が重圧感、ないし「強迫性障害」的な違和感を覚えて、息苦しくなった、というのが真相ではないか。冒頭で引用した「きっときっと・おん身は不幸になる・俺の一念は一生おん身につく」の『歌』(?)は、やはり病的であり、Bが『母様母様と母を呼んで母を楯に僕を防ごうとした』ことも些細なことであって、「今度ばかりはとてもいけぬ」と非難するのも、病的に思える。試験勉強中のS家の人々がKにとった態度、すなわち、「Bまで、一緒になって騒ぐのだ。Aの魔女め! 高文の試験が何だ! などなど聞こえよがしに怒鳴ってるのが聞こえて来る。悪人どもの寄り集まりだ。」というのも、Kの「被害妄想」ではなかったか……?

Kは、大正7年5月末に、「頭の不調」を自覚し、「乱視」の診断を受けたことで、同年6月の学期末試験を受験を見合わせているが、このことは、Kの上記メンタリティとは無関係ではないであろう。

資料「我妻栄の青春」によれば、大正8年末から翌9年正月にかけて、我妻らとともに、伊豆・土肥にて過ごし、帰郷するとS家のKに対する態度が一変していた、とのことであるが、その不在中にKの評価が一変するということは、この間に戸主(F)の重大な決断があったことを窺わせる。その中核的な原因・理由は、Kが、S家(A)のために「良かれと思って」九州に出向き、Yを呼び寄せ、S家(A)に求婚させたことが「裏目に出た」ことではなかったか。AがYと結婚したがっていたことは、おそらく事実であろう(Kとしては、Aの意思を確認の上、一高の先輩にして、S家の寄宿生としても先輩であるYを尋ねて、九州に出向いたものと思われる。)。

 だが、母親(M)が、YとAの婚姻に猛反対したのは何故か? 内情を知る友人(伊集院斉=相良徳三)によれば、「Mの名誉のために」秘匿せざるを得ないある事情(a)とは何か。Y・B間が不仲なのは何故か?

 実は、母親(M)もBも、Yが「女癖が悪い」ことを見抜いていたからではなかったか。ひょっとして、Yは寄宿していた当時、母親(M)と内通し、それをBに知られてしまっていたのではないか。父親=戸主(F)が、Kとの関係で重大な決断をしたとみられる、大正8年末から翌9年正月当時、Mは、「母親」とはいえ、妊娠していた。大正9年3月、Mは、末っ子(五男・重通)を出産しているからだ。けっしてただの「年増」ではない。
 つまり、Kが「S家にとって、因縁のY」を連れてきた時点で、「空気を読めない」「余計なことをしてくれた男」として、Kの評価を一段とさげてしまったのではないか。

 以上は、単なる「一つの仮説」というよりも、「妄想に近い推理」である。ご海容いただきたい。

 

 

追記

七戸克彦著「我妻栄の青春⑴~⑼」を読み終わった日の翌朝、高校時代の親友(現在、某大学法学部教授)がめずらしく夢に現れた。起きた後、なんでやろう?と一瞬思ったが、すぐに、その親友の亡御母堂のお名前が隆子さんだったことに想到した。