北口雅章法律事務所

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長屋王を殺害した「黒幕」は誰か

私が高校時代に習った教科書(山川出版社)には,脚注に「天武天皇の孫に当たる長屋王は藤原氏と対立し,策謀によって自殺させられた。」と書かれているが,その背景事情など詳しいことは書かれていない。

長屋王が自殺に追い込まれたのは,729年(神亀6年)だから,藤原不比等が死去(720年=養老4年)した後のことである。即ち,その当時は,不比等の4子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が権勢を振るっていたことになるが,長屋王が死去してから約6年後(729年=天平6年),天然痘の大流行によって,その4人とも病死しており「長屋王の祟り」として怖れられたということから,「罰当たり」を受けた不比等4子が,「黒幕」の如く考えられがちである。

だが,様々な文献を渉猟し,想像をたくましくすると,日本古代史の場合,「犯罪の蔭に女あり」経験則が存在・妥当するように思えてならない。フェミニズムの女性は,以下は,私の勝手な「妄想」なので,読まないでもらいたい。

続日本紀(正史)によると,長屋王は,「誣告(密告)」により自殺に追い込まれたと書かれている。これは多分,真実であろう。不比等4子の相次ぐ死は,「長屋王の祟り」と怖れられたというのであるから,時の権力者(国史編纂に影響力のあった者;聖武天皇)は,当然に内情を知っており,ウソ・偽りの歴史を記録することも憚られたであろうから。実際,不比等4子の相次ぐ死(735年)の後,738年,大伴子虫(長屋王の従者)が,中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)を惨殺する事件が起きたが,この大伴子虫は処刑されていない。中臣宮処東人は,長屋王の死去の「直後に」,無官から異例の出世をしたというから,恐らく,長屋王殺害の現場指揮者か,「誣告(密告)」の実行犯であり,大伴子虫は,そのことを知り,「長屋王の祟り」(4子の死)に乗じて,主君の恨みを晴らしたのであろう。

では,不比等の子・4兄弟が,共謀して,中臣宮処東人に「密告・襲撃」を教唆したのであろうか。
 私は,長屋王ほどの重要人物について,「処刑に値する密告」の事実を,時の天皇である聖武天皇が知らされないはずはなく,聖武天皇が,何らの根拠もなく,中臣宮処東人の「讒言・密告」を信じたとは思えないし,長屋王との関係で,その襲撃を黙認するほどの「憎しみ・殺意」を抱いていたとは思えない。実は,長屋王の自殺状況についての詳細はわからないが,長屋王の自死と同時に,長屋王の愛妻にして,元正天皇・文武天皇の妹(天武天皇の孫)である吉備内親王のみならず,同皇女との間に生まれた皇子らも同時に自死においやられている。したがって,長屋王の謀殺・襲撃は,相当悪質な残虐行為であって,たとえ4子が通謀したところで「気の弱い男たち」だけで,実行できるような仕業ではない。平清盛でさえも,政敵であった源義朝の側室・常磐御前を娶って,その子らを殺害することまではしなかったではないか。

では,真の「黒幕」は,誰か?

・・・と思わせぶりに,娘にクイズを出したら,学生に歴史を教えている娘は,「何を当たり前のことを聞くのか?」と言うような醒めた顔つきで,そっけなく,「光明子に決まっているでしょう。」と言い放ちおった。

私も,間違いなく,「不比等の娘」にして,「4兄弟の妹」にして,「聖武天皇の妻」でもある,実質的な中心人物「(旧姓藤原)光明子」が仕組んだとしか考えられない。まさに「犯罪の蔭に女あり」だと思う。

動機は何か。
聖武天皇と光明子との間には,一人娘(後の孝謙天皇)しかいなかった。いや違う。正確には,二人の間には,皇子・基王が生まれていたが,「長屋王の変」の前年,二歳で死去していた。となれば,皇女よりも,「藤原一族に無関係」,そして自身(光明子)と姻戚・外戚関係のない,長屋王一族の皇子(男性)方に皇位がうつることが懸念されたのではないか。光明子の権力欲には,並々ならぬものがあり(長屋王の死後,皇女でもないのに自ら「皇后」に就任している。),自らが4兄弟と仕組んで,中臣宮処東人ほか関係者の方から,夫の聖武天皇に対し,長屋王に係る「讒言・密告」をさせておいて,夫に対しその旨を軽信させたのではないか。皇子・基王の夭折直後の失意の中,光明子が,夫・聖武天皇を焚きつけたのではないか。「あの男(長屋王)の一族が,次期天皇を狙っているのよ。あなた(聖武)が母宮子に『大夫人』という尊称を勅命で与えたのに,あの男(長屋王)が律令違反を理由に反対して,あなた(聖武)の出した勅を撤回させたことがあったでしょう。あなたに恥をかかせたアノ男よ。」と。仏教の鎮護国家思想を信仰し,神仏に頼るばかりの“気弱な”聖武天皇を,光明子が籠絡したと想像するのは,行き過ぎか。そうかもしれないが,実は,聖武天皇には,もう一人・皇子がいた。阿積親王だ。だが,744年(天平16年),藤原仲麻呂が留守官であった恭仁京で急死している(不審死)。光明子が手を回して(「実子でない」次期皇族候補を)暗殺させたのではないかと想像は拡がる。

客観的な事実として,光明子が,長屋王の死去後,その邸宅跡を,自身の邸宅として転用し,737年,長屋王の遺児らに位階を授与したとのことであるから,光明子が「罪滅ぼし」を図ったとみて矛盾がなく,光明子=悪女説を採用すると,当時の各政変の推移がしっくりと頭に入ってきて,腑に落ちる。