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桓武天皇が遷都せん、と思ったのは何故か。

高校時代、日本史の教科書を読んでいて、桓武天皇が、平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都した理由がよくわからなかった。しかも、桓武天皇は、その中間にワンステップ置いており、平城京(奈良)から長岡京(京都)に遷都した後、さらに平安京(京都)に遷都するいった二段階を踏む理由もよくわからなかった。(それでも、大学入試は何とかクリアーできた。)

 

最近読んだ、西宮紘「釈伝・空海」に、この間の事情が分かりやすく書かれていたので、なるほどと思った。若干の脚色はあるが、真実であろう。

平城京は、聖武帝と光明皇后が、遣唐使として帰国した玄昉(僧侶)の建策を受け容れて、東大寺(大仏)、国分寺・国分尼寺等を建立し、平城京に存在した大寺院を優遇し、大寺院の方でも、寄進・荘園等の財政基盤を背景に、政治と宗教が癒着するようになった。その結果、道鏡(僧侶)が女帝(称徳天皇=重祚)をたぶらかして、政治に深く介入する事件を起こした。

 そこで、桓武天皇は、改革を考えた。
 西宮氏曰く「特に道鏡が政治に深く介入するさまを桓武帝は若い頃からつぶさに見ていたのである。その頃から桓武帝は、僧侶とは学問と修行に励むべきであり、人民の救済は官の役割である朝廷がなすべきだと考えるようになっていた。つまり、僧侶や尼僧を政治から切り離すべきだと考えておられたのだ。平城京は平城宮と寺院が同居している都だ。この双方を切り離さなければ官も僧も癒着して腐敗していくだけだという思いが痛切であれたのだ。」
 そして、桓武天皇は、腹心の部下、藤原種継を重用して、長岡京造営を強行した。その際、平城京の大寺院らには新京への移転を禁止し、新京での新寺院の建立を禁止した。

 こうなると、遷都反対勢力(旧寺院と、それと癒着した官僚グループ)との軋轢が生じるのは必然である。反対勢力は、早良親王(皇太子)に働きかけて、遷都を阻止しようと図っていたところで、藤原種継の暗殺事件が起きてしまった。そして、その黒幕として、早良親王が疑われ、桓武天皇は、早良親王(桓武帝の実弟)を廃太子とし、幽閉・配流にしてしまったことから、早良親王をして憤死させ、「怨霊化」させてしまったのだ。多分、無実だったろう。

延暦3年(784)、長岡京への遷都がなされた後、
延暦7年(788)5月4日、桓武帝の妃・旅子が29歳の若さで死去し、次いで、
延暦8年(789)12月28日、桓武帝の生母死去し、
延暦9年(790)3月10日、皇后の乙牟漏が31歳の若さで死去し、
いよいよ、桓武帝としては、亡早良親王の「怨霊」を意識せざるを得なかったのだ。

 西宮氏曰く「…この(延暦11年)8月の大雨で、洪水が起こり、長岡京の左京東南部が水に浸るという状況に陥った。桓武帝は、皇太子(伊予親王)の長患いが故早良親王の祟りであったことにげんなりされていたところに、六月の式部省南門の倒壊やこのたびの洪水である。また、母の皇太后高野新笠をはじめ、皇后乙牟漏、藤原旅子、坂上又子ら身近な者が次々となくなったために、さすがにこの長岡京を忌むようになられた。早良親王の怨霊の籠もった不吉な都と思われるようになられたのである。
 …。桓武帝が長岡京を捨てようと考えられていたころ、真魚(後の空海)はすでに大学を捨てていた(出家していた)のであった。

如上の日本史を知るに至って、高校時代から愛用していた日本史の教科書を読み返そうとしたら、何故か、紛失していのに気づいた。そこで、仕方なく、最新の改訂版を購入した。

すると、あれぇ? それなりに説明が書かれているではないか。

曰く「光仁天皇の政策を受け継いだ桓武天皇は、仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化するために、784(延暦3)年に平城京から山背国の長岡京に遷都した。しかし、天皇の腹心で長岡京造営を主導していた藤原の種継が暗殺され、その首謀者とされた皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)が地位を追われる事件がおきた(注②)。そして、794(延暦13)年には、平安京に再度都が移され、山背国も山城国と改められた。」と本文に書かれ、 
右横の注(②)には、「早良親王と関係の深かった大伴氏・佐伯氏など旧豪族の人々も処罰された。親王は自ら食を絶って亡くなるが、その後、桓武天皇の母や皇后があいついで死去するといった不幸があり、親王の怨霊によるものとされた。この怨霊の問題や、長岡京の完成の遅れが、平安京遷都の理由とされている。」と書かれている。

だが、このように教科書に「早良親王の怨霊」の話が書かれていれば、当時学生時代の私でも、長岡京から平安京への遷都の理由が理解できたはずだ(ただし「仏教政治の弊害」という抽象的な記述から道鏡事件のことを想起する必要があった。)。私が理解できていなかった以上、そのような記述はなかったはずだ。自尊心が傷つけられかかった思いから、娘が学生時代に使っていた山川出版社の教科書「詳説日本史」(私が学生時代に使っていた教科書の改訂版)を書棚から拝借して、確認すると、やはり如上のことは書かれていなかった。やはり、教科書の方が進化していたのだ。

 

こんな簡略な文章で、歴史的背景など高校生に理解できるわけがない。

 

ちなみに、

都を(長岡京から)平安京に遷しただけでは、「早良親王の怨霊」は鎮魂されない。
では、桓武天皇は、どうしたか?というと、…早良親王は、都の鬼門=東北に当たる上高野(かみたかの)に位置する崇道(導)神社に祀られている、とのこと。上高野の民間伝承によれば、この地は、桓武天皇(兄)・早良親王(弟)共通の母・高野新笠の出身地(そのもとは百済から渡来)ともいい、この裏山に、小野毛人(けみし、小野妹子の子)の墓(墓誌が発見されて国宝となる。)があるのは、彼が、「鎮魂」に功績があったと評価された可能性がある、という(梅原猛「京都発見一 地霊鎮魂」16頁以下参照)。