弁護士のブログBlog
保阪正康氏(84)の「忖度(そんたく)」記事を読んで
- 2024-09-06
「天皇は“聖なる存在”」であって、その職責として、
「“俗な世界”から離れた場所」で、日本の文化的伝統を守り、日本国民の「精神の拠り所」であり続けること、その前提として、「努力しなければ“聖”になれない」ということ。この総論は、至当であり正しい。
上皇陛下は、「象徴天皇の姿」=鏡である。
慶應義塾長からの「『俗』とは一線をひきましょう」といった「帝王教育」を受け、「たゆまぬ努力をしてこられた」という。このような歴史的な事実もまったくそのとおりであろう。
ところが、である。
保阪正康氏(84)は、「悠仁親王の東大進学」に対し「ネット上で1万2000余の反対署名」を集めるのは「失礼な行為」だと批判されている。
私自身は、「悠仁親王の東大進学」に反対であるが、「反対署名」を投じてはいない。
しかし、保阪氏の上記批判は「的外れ」であり、「自己矛盾」があり、反対署名活動の発起人達の発起理由を読み、理解されているのか!?という重大な疑問を持つ。
第1に、悠仁親王は、「天皇になるお立場でやるべきこと」つまり「“聖なる存在”」になるための努力をされているのか、という問題がある。
やるべきことをやった上で「東大を目指す」のは構わないし、要は、「優先順位の問題」といわれるのもそのとおであろう。だが、「作文盗用」などと、日本社会のみならず、国際社会からも強く批判されている行為が、はたして「“聖なる存在”」と矛盾しないのか、その存在に向かって「努力」しているといえるのか。 「作文盗用」が発覚した後も、賞を返上せず、謝罪もせず、「参考文献の付記忘れ」と居直るなどいった行状が、はたして「“聖なる存在”」に向かって努力している存在だといえるのか!?
第2に、保阪氏は、天皇は、「“俗な世界”から離れた場所」にあるべきだといわれる。しかしながら、既に成人した「将来の天皇」(?)が、一般国民=一般受験生を押しのけて、最も「“俗な世界”」である「東大受験」「東大入学」を目指すこと、しかも、自力=独力ではなしに、一級研究者との「共著」による担ぎ上げを手段として東大に進学することが、「“俗な世界”から離れた存在」だといえるのか!?
如上の実態を無視し、全く言及もしない署名活動への批判的記事は、単なる「忖度」記事でしかない。