弁護士のブログBlog
我妻栄先生の『守一、無二、無三』について
- 2025-06-11
『守一、無二、無三』とは、〈一を守り、二なし、三なし〉という言葉で、要するに、任務が三つある場合、第1の任務に絞って、任務達成を死守しよう。その結果、たとえ第2の任務や、第3の任務が吹き飛んでも、許容されるのだ、という意味の言葉である。つまり、第1に任務に集中しよう、という決意の現れととれると同時に、そのためには、二兎も三兎も追わない(犠牲にする)、という弁明ともとれる言葉である。
この言葉を、好んで使われたのが、「揮毫〈きごう〉嫌い」の我妻栄先生(東京大学法学部・民法教授)だという。我妻栄先生といえば、希代の秀才。「ゴシップ子の語る所によれば、我妻教授の大学時代の答案は、恩師鳩山[秀夫]博士〈東大教授〉によって額になって保存されているという」(丸山真男「教授紹介輯(一)法学部」東大春秋4巻1号)。
そして、日本民法学説の通説といえば、われわれ世代の法学徒が大学で民法を学んだ当時は、殆どが我妻説を指していたし、勉強熱心な学生は、我妻栄先生の大著「民法講義」を教科書に選んで使い、勉強していた。
この我妻先生が、上記の『守一、無二、無三』という言葉を最初に使われたのが、東大教授を退官された、昭和35年のときだとされている。当時、最高裁長官の田中耕太郎判事(前東大・商法教授)が定年退官されるにあたって、その後任候補として、我妻栄・前東大教授の名前があがった。そして、我妻先生の郷里(山形県米沢市)から、郷里の期待を一身に背負った使者として、金子安一(山形県議会議員)が、法務省・特別顧問室に我妻前教授を訪ね、「最高裁判所の長官の御指名があったら、万難を排して、国事に当たっていただきたいというのが、私どもの希望です。」と伝えたところ、
我妻先生は、
「君も知っての通り、自分は今まで民法を学んで来たし、今後も民法の研究を続けて行きたく思う。それが自分が国に尽す道ではなかろうかと信じています。それに日本の民法の体系を、国民の遺産として、誰にでも納得できるようにまとめ上げたいのです。それが終生の念願です。最高裁判所の長官といえば、本当に重要な仕事です。私も国を愛することにかけては、決して人後におちないと信じてはいるけれども、我妻は一民法学者としての仕事を完成するということで国に尽くしたいと考えております」
といって、傍らにあったメモ用紙にすらすらと書いて、金子安一に示した言葉が、
『守一、無二、無三』
だっという。
しかしながら、このような我妻栄の言葉は、
実は、我妻教授が、東大就任当時に公言されていた言葉とは、違っていた。
すなわち、我妻教授は、当初、次のように述べておられた。
曰く、「大学教授には二つの任務」があり、
一つは、その専攻する学問分野全体の教科書(講義案)を作ること(以下、便宜上「教科書作成義務」という。)、二つは、終生の研究テーマを選び、終生の研究をそこに集中すること(以下、便宜上「特定テーマ研究義務」という。)、以上の二つが大学教授の任務であるといわれた。
我妻栄先生は、前者の「教科書作成義務」の実践として、民法の各部ごとに、その教科書である「民法講義」の執筆を開始し、後者の「特定テーマ研究義務」の実践として、「資本主義の発達に伴う私法の変遷」を研究テーマに選ばれ、手始めに論文「近代法における債権の優越的地位」を公表された。
ところが、渡辺洋三先生(東京大学名誉教授・法社会学)によると、後者の「特定テーマ研究義務」について、我妻教授は、早々に放棄されたようで、昭和7年以降、それに関する研究論文は全く公表さていない、とのことである。
つまり、我妻先生が、
色紙に『守一、無二、無三』といった揮毫を筆記された際、
『民法講義』という教科書シリーズの完成に、残りの人生(余生)の全てをかける、といった決意表明であった、ことになる。
にもかかわらず、我妻先生の「民法講義」シリーズは、結果的には。未完成に終わった。
『債権各論』のうちの「不法行為」部分(『債権各論(下巻2)』)が未完成に終わったのだ。
我妻先生が『守一、無二、無三』と揮毫を書かれながら。
『民法講義』シリーズを完成出来なかった原因は何か?
実は、結論からいえば、我妻先生には、言行不一致があり、『無二、無三』ではなかった、ということだ。
我妻先生は、『守一、無二、無三』との言行不一致を際立たせる言葉を、昭和46年に公表された『民法研究Ⅸ-2』の「はしがき」に残されている。
曰く「…、私が自戒の基準としたものは、布の地の色と花模様の関係である。民法一筋は、私が生涯をかけて染めてゆく布の地の色であり、一筋以外に引き受ける仕事は、そこに入れられる花模様である。地の色と調和しないもの(花模様)は絶対に引き受けてはならない。…。そして花模様という以上、あまりに大きく地の部分を占めてはならない。これだけは守ってきたつもりである。」
だが、現実の我妻先生は、昭和32年60歳で東大を定年退官して以降、
妻や弟子達の期待を裏切り、「民法一筋」ではなく、「花模様」の側にのめり込んでしまったようだ。
その「花模様」の第1が、「憲法問題研究会」への没入(私も、学生時代、某雑誌を立ち読みしていた際に、何で、丸山真男先生と我妻栄先生が一緒に写真に写っているのか?と不思議に思った記憶がある。)
「花模様」の第2は、遺著『法学概論』(有斐閣法律学全集、我妻先生が死去された後の昭和49年刊行)の執筆である(私自身、学生時代、我妻先生の「法学概論」を読んで、『我妻大先生ともあろうお方が、主著「民法講義」シリーズを完成させないで、なんでこんな「駄作」を書かれたんだろう?』と不思議に思ったものだ。)。
『守一、無二、無三』をスローガンとして標榜されていながら、
我妻先生が、ライフワークともいうべき『民法講義』シリーズの完成に至らなかった原因の一端は、上記のとおり「布の地の色」とは調和しない「花模様」=道草にのめり込んでしまったからだ。そして、もう一つの原因は、突如、顕在化した病魔であった。
我妻先生は、昭和42年11月9日(当時70歳)、胃癌のため胃切除(胃の4分の3の亜全摘術)を受けている。このとき、二男の我妻堯先生(産婦人科医)は「(癌告知せず)胃潰瘍だから」と言って手術を勧めたらしい(注:我妻堯先生の鑑定書集は、小職が産婦人科・医療過誤訴訟を起こすときは、必ず関連する事案の鑑定書を精読していた。)。
次いで、昭和48年10月17日頃から、上腹部痛を覚えていたところ、二日後の19日朝、(胆嚢のある)右季肋下に激痛を覚え、国立熱海病院を外来受診され、急性胆嚢炎の診断により、即入院された。ところが、症状が改善せず、21日(日曜日)午後に「脈拍不整・微弱、口唇チアノーゼ」が出現し、まもなく意識混濁、午前8時25分、逝去された、という。直接死因は、急性心不全とされているが、死因不詳であろう(医療過誤の臭いがする。)。
やはり、生涯の仕事は、60歳代のうちに仕上げておかねば…
私もあと僅か○年。
〈参考文献〉七戸克彦「我妻栄の青春⑴」(九州大学・法政研究88-1-148