北口雅章法律事務所

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河村市長の発言は,「きしめんのように薄っぺら」 か?

河村市長の発言は,「きしめんのように薄っぺら」か?

「朝日新聞」の浅薄さ に対し反撃する。―

 

まずは,昨日(8月21日)の朝,多忙な市長のスケジュールの合間に,河村たかし・名古屋市長からお電話をいただき,その時,河村市長と交わした会話の再現から。

河村「先生(の読んでいる新聞は),朝日新聞では・・・?」
北口「まあ,中日(新聞)もできるだけ読むようにしてますが・・・」
河村昨日の朝日新聞に,デカデカと例の愛知トリエンナーレのことが・・・」
北口「ああ,『見』ましたよ。『津田の顔』がデカデカと出していた,例の記事でしょ?・・・アホらしくて『読』みませんでしたが。
河村「いやいや,その下のヤツ(記事)がヒデ~えんだ。女性の解説委員の記事で『河村たかしは,きしめんのように薄っぺらい男だ』とあるんだが,これって,『侮辱罪』になれへんか?」
北口そんな言い方はいかんわなあ,ハハハ・・。それは『侮辱』ですわね
河村ヒデ~もんだよ。記名記事で,(女性記者の)顔写真まで出しちゃって。」

 

北口「ハッ,ハッ,ハッ。まあ,ねぇ・・・。何かやるとしても『警告』文を送りつけるくらいかな?」
河村「まあ,なあ・・・,ギャグで『きしめん』は薄っぺらい,ときたか・・・。」
北口「ハハハ…,それは『名古屋メシ』に引っ掛けたんだわさ。」
河村きしめんは『味がいいんだ』という意味なんだと・・・。(じゃあ,黙ったまま)ありがたく受け取っておくかぁ・・・。」
北口ハハハ・・。その方(アホな言論にいちいち目くじらを立てず,受け流す方)が,河村市長らしくていいと思うよ。市長の気持ちはわかったから。一言,私の方から,私の『ブログ』で,反撃しておいてやるわぁ。」
河村「朝日(新聞)からすると『言論の自由』だの『表現の自由』で権力に対抗する,というのが大義名分なんだから,『河村さんの方が分かっとらんのだ。』と言いたいんだろう。が,公共施設で,天皇の顔写真を焼いてみたり,足で踏みつけたりしたのでは,『表現』をもって『権力に対抗』するという『表現の自由』本来の意義が,かえって弱まる(減殺されてしまう),って思うんだわぁ。」
北口「今回の件は,大村(愛知県知事)の方こそが,独自の『薄っぺらな憲法解釈』をもとに,名古屋市にも相談なく,全部,独断でやったことなんで・・・。だから,今回の場合,『公権力が』『公金を使って』,『政治的プロパガンダ』をやってしまっているという本質が,(大村は)全く理解できていないんで,はっきり言ってアホなんだよ。」
河村「役所が主催する場合は『裏書にすることになる』ということが,阪口先生(注:阪口正二郎・一橋大学教授の論文に書いてあったと思うけど,そこんところを,ちゃんとブログに書いてちょうだいよ! 役所(公権力)が,特定の表現に『裏書』を与えたということは,他の表現を『排除する効果が出てくる可能性がある』と。だから,よっぽど注意しないといかんと。そのこと(公権力が『裏書』を与えること)自体が権力性になるわけですよ。『天皇』を皆で尊重する,といった市民の言論の正当性を剥奪することにもつながりかねないので,こっちの方がよっぽど『権力行政』なんだよ。『天皇の写真を焼く表現』に名古屋市が『特権』を与えたのか!??,って言われかねないと思っている。だから,慎重にやらんといかん!!,・・・と思っているところなんだわぁ。」

 

河村市長の「嘆き」は,正論である。

私も,「朝日新聞」記者(下部)の多くが優秀でであることは認めつつも,
近頃の朝日新聞は,「誤報」がやたらに多い,否,多すぎる。
― その典型例が,「従軍慰安婦の誤報=虚報と,
  それに対する朝日新聞の反省なき謝罪」だ! ―

「朝日新聞」の近時の特徴である,
極端に「偏向」し,事実関係を随所で歪曲した,扇動的なプロパガンダ報道の数々には,
「ジャーナリズムの自殺行為」として,強い非難に値すると考えている。

そこで,高橋純子女史(朝日新聞・編集委員)の今回の記事に対し,河村市長に代わって,反論しておきたい。

高橋純子・編集委員が,論評の対象とした「前提事実」は,次のとおり。
「名古屋市の河村たかし市長」が,
「愛知県主催の」国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展
「表現の不自由展・その後」で展示されていた(従軍慰安婦の象徴として展示された)
「少女像の撤去を求め,『日本人の心を踏みにじる』,『表現の自由は相手を傷つけないことが絶対(条件)』などと語った」ということである
そして,高橋純子・編集委員は,
河村市長の上記「認識」について,
「いかに浅薄か」と一方的に断じ,
「彼はきしめんのように薄い男だった」と揶揄した。

そして,如上の河村市長の言動について,
「被爆地の千羽鶴が燃やされて」「悲しい」と嘆いた
テレビのニュースキャスターの発言を思い起こしたとまで,こきおろした。

 

まずは,ここで反論しておきたい。
高橋純子・編集委員は,ここでも,朝日新聞での「欺瞞的」な社内方針に従ったのか,
「朝日新聞」の報道にとって,不都合で邪魔な事実を隠す,「くさいものには蓋をする」式の手口を使っている。すなわち,具体的には,
昭和天皇陛下の顔写真を「燃やし」た挙げ句に,「踏みつける」といった,
「象徴天皇制」を「冒瀆」し,大多数の日本国民・名古屋市民に,ショッキングで,嫌悪感・屈辱感を引き起こす,健全な常識人であれば,誰がみても「邪悪な」政治的「表現」(注:ネットでも出回っている動画作品)のことには一切ふれず
かつ
愛知県と名古屋市が,「公金」(県民・市民・国民の税金)を拠出して,
如上の「悪質な」作品(歪んだ政治的プロパガンダ)の出品者・制作者らに対し,「愛知芸術文化センター」という「公共施設」を「無償で」使用させている
といった「厳然たる事実」に言及せずに,隠している,
つまり, 高橋純子・編集委員は,議論の前提事実を著しく歪曲している。

このように前提事実が「著しく歪曲」された前提のもとでは何を言っても「的外れ」だというべきであって,彼女が,河村市長の言動に「いかに浅薄か」といった侮辱的な評価をくだし,「悲しい」などと「倒錯した」評価をくだすのは,
―― 正しい事実関係を前提とすれば ――,
まさに「天に向かって唾を吐くようなもの」である。
 したがって,高橋純子・編集委員の「多事奏論」を自ら貶め,
「いかに浅薄か」をご自身で表明しているようなものだ。

ブログの性格上,端的に,結論から述べておくが,
高橋純子・編集委員の上記記事においては, 「表現行為に対する地方自治体(愛知県・名古屋市)の選別的な形での『援助』」という側面があるといった議論が欠落している。のみならず「一定のカテゴリー」に属する表現行為(わいせつ表現,名誉毀損・侮辱等,河村市長の表現によれば,「日本人の心を踏みにじる」,「相手の心を傷つける」表現)に対し『規制』を行うといった側面についての議論も,上記にとおり朝日新聞の社説にとって,不都合な,重大な前提事実(象徴天皇制を冒瀆する「侮辱的・政治的プロパガンダ」)を包み隠し,無視しているものと批判せざるを得ない。

良識ある掲示板読者(特に法曹関係者)には,ご理解いただけるものと思うが,
河村市長が,前記会話で『裏書』云々といわれるのは,憲法学者・蟻川恒正教授の諸論文からの引用であって,国家が表現の主体となる『政府言論』には,「裏書(Endorsement)するだけで,一定の議論を正当化する能力」は,「国家にのみ固有に利用可能なもの」であるといった特質があることを指す。本件の場合も,「愛知芸術文化センター」という「公共施設」を使用して,「無償で」(愛知県民・名古屋市民及び国家の補助金を使って)ある種の表現行為ができるということは,主催者たる「愛知県にのみ」「固有に利用可能なもの」である。
 本件の場合,愛知県は,見ようによっては,「文化の規制者(他人の侮辱等,規制されるべき文化・表現を規制しないという意味での「消極的」規制を含む。「規制しない」ということも,「正当な規制」を望む市民にとっては,その公共の空間が,一部の過激で不愉快な言動・プロパガンダによって占拠されることの「受忍」を強要させられる,といった側面があり,この面では,一般市民に対し規制的効果がある。)であると同時に社会的意味の構築者としての役割」を果たしているようにも見えるのであって,そのような側面があるといった自覚・問題意識が,愛知県知事・大村にも,高橋純子・編集委員にも欠落している,といった批判が妥当すると思われる。

なお,付言するに上記引用の評論部分で,
高橋純子・編集委員が指摘されている,「被爆地の千羽鶴が燃やされて」「悲しい」というニュース・キャスターの心情の対象は,「燃やされた」「被爆地の千羽鶴」であるが,
ここでの「燃やされた」「被爆地の千羽鶴」は,あいちトリエンナーレの展示では,「燃やされた」「昭和天皇陛下の写真」に置き換え,パラレルに考えることが可能である。
この場合,「悲しい」という感情をもつのは,「国民統合の象徴」である「昭和天皇陛下の写真」をもやされた日本国民であり,名古屋市民である。この「悲しみ」といった「正当な感情」は,当然のことながら,それを「燃やした」加害者=「攻撃主体」への「怒り」と密接に関連する。つまり,本件で問題となった作品によって,昭和天皇陛下の写真を燃やした「加害者」=「攻撃主体」とは,そのような冒瀆的作品を創作・造型し,(他の公共施設からも『排除』された『前科』のある)作者らである。(ちなみに,「燃やされ」た「被爆地の千羽鶴」の加害者は,原爆を投下させたアメリカ大統領であり,米国軍である。)
したがって河村市長が「悲しい」という国民感情(千羽鶴を燃やされた悲しみ=「被害者」)の方に寄り添い,公金支出者としての立場から,その「邪悪な」プロパガンダ的な作品(=「加害者」的サイド)と向き合い,これと「対峙」するのは至極当然の職責である。しかるに,高橋純子・編集委員は,「象徴・冒瀆的」表現を『援助』した大村知事に異を唱えた」河村市長のことを「きしめんのように薄い男」「浅薄だ」と批判する場面,『被害者』に寄り添う河村市長を『加害者』=『攻撃者』にすり替え,位置付けるべく,「被爆地の千羽鶴」の例までも引き合いに出しているのであって,このような高橋純子・編集委員の思考回路は,論旨不明であって,論理が倒錯(加害者・被害者の関係性が逆転)しているとの批判をまぬがれない。
 ちなみに,私自身は,アントニン・スカリア判事(Antonin Gregory Scalia、1936年3月 -2016年2月,アメリカ合衆国最高裁の陪席判事)の見解である,「言論に対する『制限』と言論に対する『援助』の区別は基本的なものであり,後者(『援助』)に対して合衆国憲法修正第1条(表現の自由を妨げる法律を制定することを禁止している。日本国憲法21条に相当する。)は,適用されない。」という見解に賛意を表する立場である。

次いで,高橋純子・編集委員は,次のごとく論じている。

 

「いまやカギカッコをかぶった『被害者』が,気に食わないものをぶった斬るための『剣』として便利に使っている。」

といわれるが,「カギカッコをかぶった『被害者』」とは何者だ!!?
「国民統合の象徴」である「昭和天皇陛下の写真」をもやされた日本国民であり,名古屋市民は『被害者』ではないのか!!??
われわれ健全な心情をもった名古屋市民が,「昭和天皇陛下の写真」を燃やされ,踏みにじられるのを「目の当たり」にし,ショックを受けるとともに,激しい険悪を情を抱き,不快感・屈辱感,総じて精神的苦痛を被ったという事態は,「精神的被害」そのものではないのか?

高橋純子・編集委員よ!!あんたが,

天皇陛下の写真が焼かれ,踏みにじられた表現を,公共施設で見せつけられて,

「われわれ日本人の健全が心が踏みにじられたこと」を否定するのであるならば,堂々と,そのように論じたらどうなんだ!

まるで『具(=中身)のない餃子(ぎょうざ)の皮』のごとく

『薄っぺらな』高橋純子・編集委員よ!!

さすれば,朝日新聞は,「健全なすべての国民」を敵に回すことになるであろう。

 

しかも,高橋純子・編集委員は,上記論考の末尾で,「主語を『日本人の心』まで肥大化させれば,おそよ斬れないものはない。」などといった「捨て台詞」まで書き込んでいるが,全く趣旨不明である。
「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」で,
河村たかし・名古屋市長が問題とした,『日本人の心』は,
あくまでも「被害の客体」であって,「主語」ではない!!!