北口雅章法律事務所

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ドイツの『実践哲学』をしても,避けがたい命運・・・

・・・動乱の欧州に生きた若き哲学者の日記から・・・

 

一月末(註:1940.1,第二次世界大戦開始直後)のあるゼミナール(註:ベルリン大学)の時間のことであった。その日の予定が大分すすんだ後に,問題がカントの『純粋理性』から『実践理性』にまで発展していって,人間の倫理性ということがゼミナールの中心問題となってきた。

「……しかし,カントにおる実践哲学,すなわち彼の倫理の根本思想は,『畏敬』という概念を除いては不可能である。しかも,この『畏敬』という概念は,単にカントの倫理のみならず,究極に於ては我々人間の倫理一般の中心点であり,我々人間のすべての倫理行為には最後の意味づけを求めるための,唯一の手がかりともいえるものである。人間は,この『畏敬』というこころを持つことによってのみ,他のいかなる生物とも異った存在,すなわち道徳的存在であるといわれ得るであろう。ところで,それならば,人間は,一体いかなるものに対して,この『畏敬』というものを持つと云えるのであろうか?

 ハルトマン先生(註:Nicolai Hartmann)は,ここまでいって言葉を切った。そうして彼のいつもするように,右手の人指ゆびで学生達の方を指しながら,教室の端から端までぐるりと見回した。発言を求める合図なのである。

 四十人近いゼミナール出席者の中から,色々な手が挙った。先生は,その一人一人を順々に指さしながら,次々に発言を求めていった。
「理性(Vernunft)!」
 私のすぐ前にいた,中国の留学生が答えた。
「法(Recht)!」
 いつも最前列に陣取っている,二人組の女学生の一人が云った。
「神(Gott)!」
 私のすぐとなりに席を占めている,私の親友で,熱心なカトリック信者のM君が応じた。
「国家(Reich)!」
 大きな声をあげたのは,この大学のナチ学生の幹部をしていた,一番年の若い,情熱型ではあるがあまり頭脳型ではない学生であった。
 他の学生達があちこちで,くすくす笑い出した。ナチスの大嫌いなM君が,机の上の肘をのばして私の肘をつついて,横目で私の方を見て,彼のいつもよくやる,『あいつの馬鹿が,また!』というサインを送った。

「どれもみな,ちがう!」
 静に首を横にふりながら,にっこり笑った先生の顔に,ちらりと皮肉そうな色がのぞいた。
「まだ外に誰か,別の意見は?」
 先生はもう一度改めて,学生達を見回した。誰も,手をあげる者はなかった。
「もっと外に,誰か?」
先生は促すように,重ねてきいた。しかし,みんな沈黙したままであったーー。

「Menschlichkeit(人間性)!」
一寸間を置いて,先生は静かに,はっきり云った。そうして,もう一度,学生達を見回した。
「人間の持つ『畏敬』は,ただ人間自らのうちにある人間性そのものに対してのみある」,
こう結んだ先生の声には,一点の疑惑をも許さない重々しいひびきがあった。
ゼミナールをすませて外に出ると,もう真の闇であった。どこか遠くの空で,ベルリン上空を哨戒する夜間戦闘機のにぶい爆音がひびいていた。

・・・<中略>・・・

 理性,法,神,国家,という,もろもろの権威。しかし,人間は,およそ権威と名付けられ得るいかなるものに屈してならないのだ。『理性』というものの持つ,如何なる理論の力によっても--『法』と呼ばれる,人間によってつくられた最高の規約と拘束の力によっても--人間の上に立つ絶対の支配者である『神』の権威をもってしても--『国家』と名付けられた,個人を強制する最大の集団力を持ってしても--そのいずれをもってしても,人間のもつ真の『畏敬』を贏ち得る(かちえる)ことはできない。人間はただ,『人間自らのうちにある人間性』にのみ相対したときに,真に『畏敬』のこころを持つことができる。人間の真の倫理は,人間がただ,『人間自らのうちにある人間性』に対してのみ絶対の責任を負うことによって,可能であらねばならぬ。

<出典>篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」(弘文堂)