北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

高野山の歩き方2:余録

グーグル検索で,
「弘法大師」×「葬儀」とか,「弘法大師」×「火葬」
あるいは,「空海」×「葬儀」「空海」×「火葬」
といったキーワードの組合せで,検索をかけると,
何故か,私のブログが筆頭で,登場する。

弘法大師・空海は,どのように葬られたか
https://www.kitaguchilaw.jp/blog/?p=913

 

約2年前(2017-11-06)に書き込んだブログだが,今でもアクセス数はそれなりにある。

このブログの一節で,

昭和63年11月,真然堂(真然の墓所)の解体修理に伴い,その基壇部の
発掘調査が行われたが,その結果,基壇中央部から,真然の骨臓器とみられる
猿投窯製作の「緑袖四足壺(りょくゆうしそくこ)」が発見された。」と書いた。

昨日,高野山を訪れた際,
金剛峯寺の中に,上記墓所が,「真然大徳廟」と命名されて,観光地化していた。

 

また,上掲ブログには,

…この智泉大徳の廟も,高野山の伽藍東塔の東側,つまり金剛峯寺の境内にある。
とも書き込んだが,この廟の位置についても,案内図が出ていた。

 

さらに,上掲ブログでは,
空海の時代,高野山は原生林であり,「奥の院」は,金剛峯寺の壇上伽藍付近から4キロも東に位置していた。空海の高弟,真然大徳・智泉大徳の各墓所は,いずれも,金剛峯寺の境内・裏山にある。それにもかかわらず,そのような高弟達が「即身成仏」している地から,4キロも離れ,何処にあるかもわからぬ地(奥の院)で「入定」する理由が何処にあろうか。伽藍もなかった地に,さまざまの仏具・法具を運搬するには多くの困難を伴ったことは自明であろう。

とも書いたが,実際に歩いてみると,「壇上伽藍」から「奥之院」まで道程は,それほど起伏はなく,意外に平坦に感じた。それでも「奥之院」物語は,後世の産物であろうが。

 

ちなみに,私の娘は,私のことを「空海オタク」と言いおった。

(大原国際美術館で見かけた空海像)