北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

ミケランジェロの恋人

ミケランジェロは、美青年(トンマーゾ・デ・カヴァリエーリ)を寵愛した時期もあったようだが、彼の人生を彩る、女性の恋人は、唯一、「最後の審判」を描き始めた頃に巡り会ったとのこと(ミケランジェロ当時60歳)。相手の女性は、ヴィットリア・コロンナ(当時45歳)。修道女で、プラトニックな関係だった。

だが、彼女は、いわゆる万人受けする「美人」ではなかったようだ。ここで、数年来、抱いていた疑問の一つが解けたような気がしたので、ブログに書いておこう。

 

芸術家は、理想的な美貌をもつ女性を創作対象とするときは、当然のことながら「美人」のモデルを選ぶ。ミケランジェロにおいては、「ピエタ」のマリアが典型例だ。

 

だが、恋人コロンナ(凜々しい男性的な顔立ちをしていたのではないか?)をモデルにすると、おのずと柔和な、万人受けする「美人」特有の美貌は表現されえない。
しかし、ミケランジェロにおいては、惚れ込んでいるので、たとえ万人受けしなくても、彼女の心・精神の美しさは表現されているものと信じ込んで、彼女をイメージした素描を何枚か描いている。例えば、以下のとおり。

 

どうやら、彼女は、自身の「現実」をリアルに自覚させる、彼氏=ミケランジェロによって描かれた、自分自身の素描がお気に召さなかったらしい。このことは、ミケランジェロが遺した詩(マドリガーレ)から窺い知れる。

もしも幸せな心から美しい顔が生まれ、
悲しい心から醜い顔が生まれるのなら、
意地悪で美人の女はどんな顔になるのだろう。
僕はこんなに彼女を思っているのにあんなに冷たいあの女(こ)。
僕の生まれた星は僕の眼に
美しいものとそうでないものを見分ける力を与えてくれた。
でもあの女(こ)は残酷でいつも僕にこう独り言をさせるー
「僕の心が僕の顔を醜くさせるのかな?」と。
女性の肖像を描いていても
「画家は自分の顔を描いている」というのなら、
僕を悲しませるあの女(こ)は何をしているのだろう。
・・・・(以下、略)

「僕の心が僕の顔を醜くくさせるのかな?」
「(女性の肖像を描いていても)画家は自分の顔を描いている」
という趣旨は、自分の肖像を描かれた女性のモデルが、画家(僕)に向かって、「私の顔が醜く描かれているのは、あなた(画家)の顔が醜いからよ。」と述べたことが前提となっているように読める。

ところで、前から、前掲「ピエタ」のマリアと、「最後の審判」のマリアとの違い(落差)が気になっていたのだが、ミケランジェロの晩年の恋人・ヴィットリア・コロンナのことを読み返して、ハタと気がついた。ひょっとして、「最後の審判」のマリアは、実は、ヴィットリア・コロンナがモデルだったのではないだろうか。

 

<参照>

青木昭「図説・ミケランジェロ」(河出書房新社)

木下長宏「ミケランジェロ」(中公新書)