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尾張名古屋での「円空の軌跡」その1

上掲【図面】は、大正時代、吉田初三郎が描いた鳥瞰図である。尾張名古屋の南西部から東北方面を俯瞰するパノラマ図で、左側に描かれた名古屋城を基軸に、「円空ゆかり」の寺社の位置関係を把握できる。覚王山日泰寺(明治34年:1904年建立)とその北側にある鉈薬師堂以外の寺社は、徳川幕府による名古屋城着工(1610年)よりも前から存在し、その位置は、円空が生きた江戸時代から変わっていない。

円空が、鉈薬師堂(名古屋市千種区田代町:Ⅰ)にて、仏像群を遺したのは、樋口好古著『那古野府城志』に「寛文九酉年…日光月光両菩薩十二神の像を新彫して安置せり。」とあることから、寛文9年(1669年)とされている(小島入門33頁)。また、円空が、荒子観音寺(名古屋市中川区荒子町:)に逗留した時期は、荒子観音寺蔵『浄海雑記』巻三の中に「延宝四丙辰年極月廿五日 日本修業乞食沙門 圓空(花押)」の奥書のある『両頭愛染法』という密教修法の書があることが記載されていることから、延宝4年(1676年)頃とされている(丸山・旧風土記126頁)。一方、名古屋城の鬼門に位置する龍泉寺(名古屋市守山区竜泉寺1丁目902:Ⅱ)に残る馬頭観音像の背銘では、「龍泉寺大慈大悲観音 日本修行乞食沙門 延宝四丙立春大祥日」と墨書されていることから、この馬頭観音像は、延宝4年(1676年)1月(「立春」)に造顕されたことになる。

 

 したがって、「円空ゆかり」の上記3寺社は、時系列的には、Ⅰ:鉈薬師堂寛文9年[1669年]))→Ⅱ:龍泉寺(延宝4年1月[1676年])→Ⅲ:荒子観音寺(同年1月)の順に並べられる。つまり、円空は、鉈薬師堂での造仏活動の後、一旦、名古屋を去り(中観音堂[岐阜県羽島市]に向かったと考えられる。)、その後、(美濃・奈良方面での巡錫を経て、延宝3年、奈良県の松尾寺にて、役行者像を遺した後に)龍泉寺に現れ、「名古屋城の鬼門」での造仏活動(鎮魂・供養)を行った。その後、龍泉寺ら南西方面に向かい、荒子観音寺に至った、とまでは客観的にいえる。

 

 

若干敷衍すると、円空は、延宝2年(1674年)からその翌年にかけて、三重県で諸仏を造顕しているが、尾張名古屋の龍泉寺に姿を現す前は、延宝3年9月、奈良県の松尾寺(大和郡山市松尾山)にて、役行者像を造顕している。

 その後、円空は、尾張名古屋に向かったと考えられるが、順番として、まずは、名古屋城の「鬼門」に当たる龍泉寺に出向き、馬頭観音三尊の他、千体仏を造顕するとともに、しかるべき祈願をした後に、荒子観音寺に向かったであろうと、当然の如く考えていた。

何故ならば、円空のような天台宗系の僧侶にとって、名古屋城の「鬼門」にお参りすることには格別の意味があったと想像されたからである。具体的には、第1に、円空が天台宗系の僧侶として、「鬼門」を意識したであろうことは、a.天台宗の開祖・最澄が開山した比叡山延暦寺は、平安京(京都)の「鬼門封じ」の寺とされてきたことは周知の事実であり、b.徳川家康に参謀として仕えた天海も天台宗系の僧侶であり、天海が江戸城の鬼門に当たる上野に(上野台地を比叡山に見立て)、「鬼門封じ」の目的で寛永寺を創建していたことは、当然に円空も承知していたものと考えられる。そして、第2に、「名古屋城の」鬼門を意識した背景には、かつて鉈薬師堂での造仏活動の際、尾張藩主から官材を提供されたという恩義があるとともに、明歴の大火(1654年)による江戸復興の際の資材不足から、当時、木材は貴重な資源と意識されるようになっていたこと(幕府が「諸国山川掟」を発令したのは1666年[寛文6年]である。)に鑑みれば、円空が造仏活動を進めるにあたっては、尾張藩主との関係も良好に保つことは有益であり、そのために「鬼門封じ」の祈願をしておく意義があったものとも想像される。

 

 ところが、昨晩、『円空学会だより』(令和8年1月1日発行)を読んでいたら、上記とは異なる見解が、清水暢夫氏「龍泉寺研究会報告記」において紹介されていた。

すなわち、長谷川公茂・前理事長の御著『円空の生涯』(人間の科学新社)によれば、円空は、まず「先に荒子観音寺」を訪れ、そこで住職の円盛法印から、同寺に祀る仁王の制作を依頼され、その像容として龍泉寺の仁王をモデルにするよう示唆を受けた。そこで、円空は、次いで龍泉寺に向かうことになった、というのだ。

 念のため、長谷川前理事長の御著(117頁)を読み返したが、上記御説の根拠として記載されていることは、a.荒子観音寺所蔵の『浄海雑記』に、住僧円盛が円空作に「二大力士」のは製作を依頼したと記載されていること、b.荒子観音寺の仁王の像容等が龍泉寺のそれと似ていることの二点だけである。しかしながら、『浄海雑記』は、後世の「文久3年(1863年)に記載されたもので、円盛・円空時代の実体験・直接記憶に基づく著作ではないことを措くとしても、円空が荒子観音寺を訪れた際、仁王の像容について経験が乏しかったというのも、円空に対し誠に失礼な話で、到底採用できないものと思われる。