弁護士のブログBlog
尾張名古屋での「円空の軌跡」その2
- 2026-02-21

「円空ガイド」の目的で、吉田初三郎の鳥瞰図をもとに作成した上掲パノラマ絵図については、先のブログでも紹介したが、このパノラマ図を作成していた際、龍泉寺(Ⅱ)と庄中観音堂(Ⅱ’)がかなり近接した位置にあることに気付いた。それとともに、この位置関係からすると、ひょっとして、円空は、龍泉寺から荒子観音寺に向かう途上、庄中観音堂に立ち寄ったのではないか? と一瞬、思った。

しかしながら、通説によれば、庄中観音堂の円空仏の造顕時期は、延宝5、6年頃(円空が荒子観音寺に逗留した後)とされている(小島入門60頁)。確かに、龍泉寺の円空仏のゴツゴツ感(荒削りで、材木の形状を残している。)と、荒子観音寺の円空仏のゴツゴツ感には連続性が認められるのに対し、庄中観音堂の円空仏は、より洗練された滑らかさが認められ、この間には、非連続的な彫像方法の変化を看取できる。
このような問題意識をもっていたところ、先のブログで紹介した清水暢夫氏「龍泉寺研究会報告記」(『円空学会だより』季刊218号)には、同氏の見解として、「庄中観音堂の像は龍泉寺や荒子観音寺の延宝4年の像とは一線を画している」、延宝7年に「白山の神託」を得たことによる作風の変化を経て、「貞享初期への柔らかい線的表現に変わる直前の像」と思われること、より具体的には、庄中観音堂の薬師如来像と、日光市輪王寺の薬師如来像(天和2年、1682年頃)の類似性から、庄中観音堂の諸像は、円空が関東方面での巡錫から「尾張方面に帰郷した後」に造顕された可能性があると指摘されている。

確かに、庄中観音堂の薬師如来像(上掲・右)と、日光市輪王寺のそれ(上掲・左)とは類似していることから、庄中観音堂の薬師如来像の造顕時期は、「関東巡錫の後」と考えるのは自然なことではある。がしかし、庄中観音堂の諸像の造顕時期が、「白山の神託」後であるとして、関東巡錫(延宝8年~天和2年のわずか3年間)よりも前に造顕された可能性はないか(小島入門60頁は、この見解をとる)。
私見は、次のとおりである。

円空が関東巡錫を開始した際、最初に手掛けた作品が、不動院(現在廃寺)の不動明王像であったとしても(小島入門71頁参照)、関東巡錫の比較的早い時期に、小渕観音院(埼玉県春日部市)にて、大作の聖観音菩薩三尊像(上掲・左)を造顕したと考えられる。ここで思い当たるのが、この聖観音菩薩三尊像の構成である。聖観音・不動明王・毘沙門天で構成された「特異な」三尊形式である。このような円空独自の三尊形式は、実は、庄中観音堂の三尊形式(上掲・右)とも共通しており、像容も基本的に共通している。
したがって、庄中観音堂の諸仏のうち聖観音三尊については、「関東巡錫の前」に「関東巡錫祈願」の目的で造顕したのではないだろうか。

ここからは、私の仮説(試論)であるが、円空は、尾張地区での巡錫・巡業を企図して、最初に龍泉寺を訪れ、「尾張巡錫祈願」の目的で、馬頭観音三尊を造顕した。その上で、荒子観音寺に向かい、ここで長く逗留し、数多くの円空仏を造顕した。その後、円空は、尾張地区の各地で造仏活動を展開したが、一段落したところで、尾張巡業の「出発点」であった龍泉寺に回帰(御礼参り)したのではないか。次いで、円空は、関東巡業に向かうべく、龍泉寺から瀬戸街道を東に向かい、「関東巡錫祈願」の目的で、庄中観音堂にて、聖観音三尊を造顕した(延宝8年[1680年])。その上で、円空は関東巡錫を開始し、埼玉・栃木・群馬の各地での巡錫・造顕活動を展開した。そして、その後に関東巡錫の「出発点」であった庄中観音堂に回帰し(御礼参り)、ここで(天和2年[1682年])、阿弥陀如来像と薬師如来像を造顕したのではないか。
ここで想起されるのが、円空が、鉈薬師堂で、薬師三尊像の脇侍(日光菩薩・月光菩薩)の各脇侍として、聖観音菩薩像と阿弥陀如来像を造顕していることである。つまり、円空においては、三尊形式にとらわれず、これをさらに拡充すべく五尊形式に発展させる、という発想があったように思えてならない。

(鉈薬師堂の五尊像)

(庄中観音堂の五尊像)