北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

“命の母” 亡インゲボルグ岡田さんのこと

 先日(10月23日),俳優の故・岡田眞澄さんの “お嬢” 朋峰(ともみ)さんが,
2019年の「ミス・インターナショナル日本代表」に選出された,
というニュースに接し,
― 故・岡田眞澄さんのことではなく!! ―
故・岡田眞澄さんの亡母・インゲボルグ岡田さん(デンマーク出身;翻訳家)のことを思い出し,
涙が出た。

私にとっての故・岡田眞澄さんは,昔,地元・名古屋にあった中日劇場で,
ミュージカル『ラ・カージュ・オ・フォール』の舞台の上で見たことのある
舞台俳優でしかない。
しかし,
昔,文藝春秋の連載モノ『命の母―忘れ得ぬ面影』(取材・構成=久江田知佳)の中で,

岡田眞澄[当時67歳]の母・インゲボルグ岡田さん[享年83]について書かれた,
『母が起こした奇跡』
は,何度読んでも感動してしまい,つい涙が出てきてしまう。
「“家族”とはどういうものか」,「“母親の愛”とはどういうものか」
といったことを考えさせられるからだ。

お嬢が「ミス・インターナショナル日本代表」に選出された,という報に接して,
“命の母”インゲボルグ岡田さん[享年83]が起こした
“奇跡の話”を思い起こしたので紹介しておきたい。

(2002年)

 明るくユーモラスな母でした。デンマーク人の母は,パリで絵描きの父と出会い結婚し,第2次世界大戦を機に,一家で日本へ引き揚げてきました。私が4歳のときのことです。
 その後,叔父を頼って台湾に渡りましたが,当時はまだ金髪に青い目の外国人は珍しく,道を歩けば指さされ,憲兵隊からはスパイ容疑をかけられて,外出禁止を命じられました。でも,母はけっして落ち込んでいる様子を見せず,どんなときでも,明日は幸せになれると信じ込ませてくれました。
 私がデビューした後,うちが火事で全焼し,慌てて帰宅したときも,
「お帰り。今日はずいぶん早いのね」
 とおどけるのでこう答えました。
「うん。早退したのさ」
 あのときは煙の中で笑い泣きしながら抱き合いました。戦争や火事で何度もゼロからのスタートを切った母は強くたくましかったですね。
 そんな母が最後にスゴい力を見せてくれました。私が「母危篤」の連絡を受けたのは映画撮影中でした。急遽,母がいたコペンハーゲンに飛びました。とはいえ,許された滞在は5時間だけ。それでも最期をみとることができました。私が到着して2時間後に息を引き取ったのです。後に悟りました。私が間に合ったのではなく,母が待っていたのだと。息子を思う母の愛は大きく,強く,海も越えるものなんですね。