北口雅章法律事務所

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徒然草第42段の解釈をめぐる義兄弟対決?

徒然草第42段を,私流に現代語訳すると,次のとおりとなる。

 第四二段
 唐橋中将雅清という人の息子に,行雅僧都(ぎょうがそうず)という高僧がいた。真言密教の教理を研究する学僧らが師と仰ぐほどの高僧であったが,のぼせ上がるという病気の持ち主で,年をとって老化が進むほど,鼻詰まりになって,鼻息もしづらくなってきた。このため,いろいろ治療が施されたが,病状は悪化するばかりで,腫脹が目・眉(まゆ)・額(ひたい)にも拡がり,顔面全体を覆ってきたので,物も見ることができず,まるで「二の舞・腫面」にような容貌になってきた。ただただ恐ろしく,やがて鬼の形相になり,目は頭の上,鼻が額の辺りにきたりした。このため,僧都は,それ以後,僧坊にも姿を見せなくなって,引き籠もり状態になってしまった。そして,長年経って,なおも病状は重化し,死んでしまった。
 こんな病気もあるんだなあ。

[原文]
唐橋中将といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。気の上る病ありて、年のやうやう闌くる程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。かゝる病もある事にこそありけれ。

 

 

 

 

 

 

 

上掲・42段の含意に関する私の解釈は,次のとおりである。
すなわち,「主人公は,真言密教の教理を究めた高僧である。頭の上に目が動き,鼻が額に動くわけがなく,このような奇形が後天的に起こりえないことは,生物学的にも病態・病理学的にも,自明の理である。つまり,兼好は,第四二段で,行雅僧津の容貌の変化を象徴的に描写することで,同人の文字どおり『鼻持ちならぬ』高慢・尊大さを揶揄しているのである。したがって,第四二段は,僧侶の俗物性・醜態を皮肉った,フィクション(創作)だと思われる。」

 

ところが,義弟(医師)の解釈は違っていた。
上大静脈症候群で,医学的に説明のつく症状ではないか。目の位置はともかく。」
とのことである。

もし義弟の解釈の方が正しいとなると,
第40段の解釈に関する私見の前提がくずれてしまうことになるのだが・・・???

嗚呼・・・