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中観音堂の合掌童子像は,聖徳太子像か?

円空は,寛文9年(1669年),鉈薬師堂(名古屋市)にて,聖徳太子二歳時の像容を刻したとみられる合掌童子像下掲・左)を造顕した翌年(寛文10年=1670年)頃,中観音堂(岐阜県羽島市上中町)にて,上半身裸体の合掌童子下掲・右)を造顕している。

図録『円空さん』(2005年)

 

 

(後藤英夫・撮影)

 

この合掌童子像の尊名について,円空学会の通説的見解によれば,「上半身裸体の合掌童子」という像容から,聖徳太子二歳像との解釈も成り立つが,その髪型<美豆良(みずら)を考慮すると(二歳児では,「みずら」は結えないので),聖徳太子十六歳像と理解せざるを得ない面があり,結局,二種の形態が混交した像容であるという理解がある(小島梯次「円空の聖徳太子像」『円空学会だより』第73号)。

 しかしながら,木喰が同様の像容の仏像の背銘に「聖徳太子」と墨書した例があるとしても,円空本人が本合掌童子像の背銘として「聖徳太子」と墨書しているわけではない。 また,聖徳太子十六歳像であれば,上半身裸体にするのはいかにも不自然であって,この場合は,着衣をしているのが通例である(例えば,一乗寺[兵庫県加西市]に遺る下掲・聖徳太子像参照)。円空仏には,確かに一像で複数の尊像の特徴を兼ね備えた(多機能の)尊像が何例も造顕されているが,一像で,同一の尊像・複数時期を兼ね備えた像容は,他に例をみない。

 

 このように考えると,中観音堂の合掌童子像は,やはり文殊院(奈良県桜井市)の快慶「善財童子」を模したものと理解するのが自然であろう(小島先生も,そのように改説されたようにも読める[『円空仏入門』37頁])。

 

 この点,梅原猛先生は,“動物的な勘(?)”が働いたのか,中観音堂の合掌童子像については,実は聖徳太子像ではなく,自刻像でではないか,と洞察されている(『歓喜する円空』201頁)。私自身は,かねてより円空作の善財童子像は,基本,円空自身の投影であると考えているので(円空学会編『円空研究=34』所収の拙稿),梅原先生のここでの直感は,炯眼であると思われる。