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丸山尚一氏の「円空風土記」

昨年頃から,円空仏の魅力を自分なりに分析した美術評論を書いてみたい,なるべく史実に忠実に,地誌と宗教社会学の成果を加味して,円空の足跡をたどってみたい,と考えてきた。

が,その矢先,私が構想していたものにかなり近い先駆的業績を,このほど見付けてしまった。それが丸山尚一著「円空風土記」と,「新・円空風土記」だ。いずれの書籍の口絵の写真にも,先のブログで紹介した善女龍王像が採用されている。

薬王寺(埼玉県大宮市)所蔵の善女龍王

 

岐阜県下呂市小坂町・観音堂の善女龍王

 

丸山氏曰く「(荒子観音寺・名古屋市中川区)にはひときわ目立つ端麗な観音像(91.6㎝)がある。細く半月形になぞらえた長い眉,細く長く直線に切った目,微笑する口もと,ふっくらとした柔らかな頬,両肩に長く垂れる宝髪,夭(うつく)しい美しささえもった像である。数ある円空の像のなかでも最も円空を特徴づけている彫像の1つといえるだろう。夭(うつく)しい美しさの表情は,岐阜県武儀郡上之保村・鳥屋市不動堂の尼像を連想させるものがある。それは顔の表情だけではない。背から腰にかけての線が,なんとも似ている。そして,ともに流れるような美しい線である。円空の素晴らしいデッサン力と造形力をそこに見るのである。」(旧104頁)と。

つづけて,丸山氏曰く「ただ,この像は単に観音としてではなく,あるいは竜神として彫ったのかも知れない。よく見ると,左手に持つ宝珠が,とぐろを巻いた竜体を表現しているのである。そして,額の上には牛に見える獣面をあしらっているのである。円空は観音寺にのこした像を『浄海雑記』にかなり細かく書き残しているが,この観音にあたる記述は,『浄海雑記』の中の竜神像以外には見当たらない。つまり,『竜神像 本堂脇壇に安ず 円空上人の作 当村民及び熱田伝馬町人 請雨の節 本尊の傍に安置して之を祭る 必ず効験あり』と書かれている像が,この像と思われるからだ。」(旧105頁)と。

この慧眼は,なかなかのものだ。

さらに丸山氏は,荒子観音寺の観音と,成願寺(愛知県南知多)の竜神とを対比させることで,観音とみえた像が、実は,龍神像であったことが論証されている

ここまで分析された先駆的業績があると,美術評論としては,既に尽くされてしまっている感がある。

何故,これまで,このような先駆的な業績に気づかなかったのか?

と自問すると,

確か,梅原猛先生が「歓喜する円空」(新潮社)の中で,丸山尚一氏の業績を批判していたような記憶が・・・と想い至り,該当箇所を読み返すと,書かれてあった。
梅原先生曰く「いま一書,円空仏の辞典のようなものがある。それは丸山尚一氏の『新・円空風土記』(里文出版,1994年)である。丸山氏も長谷川(公茂)氏や小島(悌次)氏とともに各地にある円空仏を遍(あまね)く訪ねた研究者である。丸山氏には詩人的な素質も多分にあり,各地の円空仏を訪ねた記録にはその感動が込められていて興味深い。しかし,丸山氏は仏教に対してはほとんど理解がなく,そのせいであろう,仏像の制作年代についての認識が甚だ甘いのが惜しまれる。」(63頁)と。

確かに,丸山氏の宗教的観点からの分析には??と思うところがある。
例えば,「円空は,岐阜県の美並村では,神を意識して像を彫った。しかし,やがて円空は,仏を意識しなければならなくなる。神と仏の相克は,・・・」という表現は,神仏習合の思想からすれば,違和感があるし,「仏門の身である僧が,仏の像を刻むときに感ずる怖れと異和感,そのみぞを捨て去るために,仏を作る苦しみを捨てるために,円空は北海道へ渡る。」などという感覚は,私の円空像とは異なる。

が,それでも,丸山氏の美的分析には非常に鋭いものがあり,その美的感覚は,かなり親近感を覚えることも確かだ。