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白山信仰の開祖「泰澄」は,実在した人物か

日本には,古来,山は,神が降臨する場(憑代;よりしろ)であり,あるいは,山イコール神そのもの(礼拝対象)として観念する山岳信仰が存在した。特に,越前(福井県),加賀(石川県)及び美濃(岐阜県)の県境に位置する白山(連峰)を信仰の対象(白山神)とする山岳信仰こそが,白山信仰である。ちなみに,白山神を祀る「白山神社」の数は,全国で2700社以上にものぼるという。
 この白山信仰の開祖とされるのが,「泰澄」であり,716年(霊亀2年),泰澄は,霊夢で白山神の導きにより白山に登り,白山のうちの御前峰(ごぜんがみね)にて貴女姿の「白山妙理大権現」十一面観音の化身),別山にて宰官姿の「小白山別山大行事」聖観音の化身),及び大汝峰(おおなんじがみね)にて,老翁姿の「大己貴(おおむなち)」(阿弥陀如来の化身)を感得した,とされている(神仏習合)。

 白山神は,十一面観音(「本地」)が,仮の姿(「垂迹(すいじゃく)」)である「妙理大権現」ことイザナミ尊として顕現した,と説かれている。そして,われらが円空は,密教化した天台宗系の僧侶でもあるが,白山信仰をも持っていた修験者であったことは疑う余地がない。その理由として,①円空が寄宿し像仏した寺社の多く(例えば,荒子観音寺の開祖も泰澄とされている。)は,白山信仰の礼拝所であり,②円空仏の初期に属する,北海道・東北での像仏活動の殆どは十一面観音(白山信仰の本尊)と聖観音(その脇侍)であること,勿論,白山妙理大権現像も造顕していること,③円空自身が,延宝7年(1679年),千虎の滝(岐阜県郡上市八幡町)にて修行中,白山神から託宣を受けた旨を熊野神社(同市美並町)の十一面観音像の背銘として墨書していること等の諸事情があげられる。

 

 ところで,「白山信仰の始祖」というべき「泰澄」は,実在した歴史上の人物であろうか。

 泰澄作と伝えられる十一面観音を本尊として祀り,泰澄が創建したと伝えられる寺が,北陸地方周辺の随所にあり(例えば,滋賀県マキノ町海津の大崎寺,宗正寺,高月町の渡岸寺,大津市石山内畑町の岩間寺,石川県小松市那谷町の那谷寺,福井市西部の糸崎寺等々),虎関師錬(鎌倉時代の禅僧)の「元亨釈書」(仏教の歴史書)にも「泰澄伝」という標題の章がある。ところが,正史(国が編纂した正規の歴史書)である「続日本記」には,泰澄は,登場しない。このため,泰澄が,実在の人物であったか否かについては,これを疑う見解がある(本郷真紹先生[立命館大学教授]は,複数の修験者の足跡が「泰澄」の事績として凝縮されている,との可能性を示唆する)。

 泰澄の事績をまとめた資料として,「泰澄和尚伝記」がある。
これは,958年(天徳2年),「浄蔵」(天台宗の僧侶,父は漢学者・三善清行で,その第八子,母は嵯峨天皇の孫娘)が弟子の「神興」(大谷寺の祖)に口授して筆記させた,泰澄の伝記であるが,この伝記等によると,泰澄は,歴史上の人物と深くかかわっており,数々の華々しい事績が並べられている。①天武天皇の治世(天武11年=682年),越前(福井県)麻生津(あそうづ)(現在,福井市浅水町)にて,三神安角の次男として出生,②14歳のとき,夢の中で,「八弁の蓮華」(※胎蔵界曼荼羅の中央に描かれた八枚の蓮華の花弁;大日如来の徳を意味する)に座っていると,横にいた高僧が「十一面観音の徳を施せ」と告げるのを経験し,以後,夜な夜な越知峰(越智山)の岩屋に籠もって修行をし,③716年(霊亀2年),天衣を身に纏い,瓔珞(首飾り)をつけた貴女が雲から現れ,「やってらっしゃい」と告げる夢を見て,翌717年(養老元年),白山山麓に出向くと,林泉にて,その貴女が現れて告げるに,「私はイザナミであり,妙理大権現と号す」と名のった。④そして,泰澄が白山の頂上に登って加持祈祷をしていると,「緑碧池(翠ヶ池)」の中から「九頭龍王」(法華経・如品に登場する八大龍王のうちの「和修吉」)が現れた。これに対し,泰澄が「これは,方便の示現であって,本地の真身ではない。」と譴責すると,十一面観音の姿に変えた。⑤722年(養老6年),泰澄(当時41歳)の加持祈祷(智拳印,真言:アビラウンケン[※胎蔵界大日如来の真言],三鈷杵)によって,元正天皇の病気を全快させた,⑥725年(神亀2年)行基(当時57歳)が,白山を訪れて,泰澄(当時44歳)と出会い,泰澄の経験談を聞いて感服し,⑦736年(天平8年),泰澄(当時55歳)は,玄昉から,「十一面経」を授けられ,翌年,勅命によって,「十一面経」を修して,天然痘の流行を終熄させた。⑧767年(神護景雲元年),86歳で遷化(死去)。

 子細に検討すると,上記伝記の大半は,フィクションであるとわかる。例えば,上記②の「八弁の蓮華」(胎蔵界曼荼羅)は,当時(694年),まだ大日経が翻訳される前であるから,明らかなフィクションである。そもそも導師=引率者も居ないのに,修行できるわけがない。また,上記⑤の修法も,真言密教の修法であるから明白なフィクション(空海が,遣唐使として入唐したのは804年で,密教経典を最初に日本にもたらしたと考えられる僧・玄昉が唐から帰国したのは735年=天平7年である。)。

 思うに,如上の事績がもしあれば,特に元正天皇の病気を加持祈祷で治癒させた実績があれば,「続日本紀」に登場しないことは,やはり考えづらいように思われる(行基でも,「続日本紀」「和尚の霊異・神験,類に触れて多し,時の人,号して行基菩薩と曰う」と書かれている。)。したがって,泰澄の事績は,白山信仰を持つ天台宗系の修験者が,修験道の開祖である役行者(役小角)に比肩すべき理想像(白山に特化した修験道の開祖)として創作・脚色し,いわば「神話化」させたもののように思われる。

 なお,円空が,「役行者」(続日本紀にも登場し,妖惑の罪で,伊豆に配流されたという。)については,多くの像を遺しているのに対し(円空は,高僧である慈恵大師や弘法大師の像も遺している),泰澄の像については,これを造顕していないのも,フィクションであることを承知していたからではないだろうか。

(参考文献)本郷真紹著「白川信仰の源流」(法蔵館)
      梅原猛「歓喜する円空」