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円空の和歌の真意・評価をめぐって

円空が詠んだ和歌には、古今和歌集や新古今和歌集等の古典からの「本歌取り」の歌が少なくない。特に飛騨高山の千光寺に遺る『けさの二字に男童子歌百首 作者圓空』(以下「袈裟山百首」という。)において、この傾向が顕著で、小島梯次・円空学会理事長によれば、100首のうち実に90首は、古今和歌集からの『本歌取り』だという(『円空・人』まつお出版200頁)。

例えば、円空作「袈裟山百首」の中には、

けさわかれ(今朝別れ)あす(明日)はあ(逢)ふ身と思へども
 よやふけぬらん袖の露けき(73番)

という歌がある。
この歌が「下敷き」にしているのは、古今和歌集の中の次の歌である。

今日(けふ)別れ明日は近江(あふみ)とおもへども
 (よ)や更(ふ)けぬらん袖の露け(369番)

[現代語訳]今日お別れしても、また明日、近江へ出発なさるときにお見送りをして、もう一度逢うことができる私たちですが、夜が更けたからでしょうか、袖が露で湿って、別れの悲しきが身にしみてきました
[注釈]「近江」は「逢う身」との掛詞。「袖の露けき」:袖が湿ってきたのは、夜が更けて夜露に濡れたからか、と言いつつ、涙で濡れてきたことを匂わせた歌である(以上につき、奥村恒哉・校訂『新潮日本古典集成・古今和歌集』)

したがって、
 円空の上掲歌の現代語訳としては、「今朝別れ明日は逢うのだと思いますが夜は更けていき、袖は涙で濡れました。」(若森康平「袈裟山千光寺百首」円空学会編『円空研究=33』)などと理解され、単なる「もじり歌」、「推敲が足りない」(吉田富夫「高賀神社蔵円空自筆詩歌集について・4」円空学会編『円空研究=4』)などと、芳しくない評価がくだされることになる。例えば、「残念ですが、短歌の創造性は乏しく感じました」(前掲・若森氏)、「安易な借用としか言えまい」(前掲・吉田氏)等の評価である。ただし、お二方とも、別の面から、円空の和歌について、若干の評価をしてみえる(前掲・若森氏「彼の残した千数百首は偉大であり、人の真似のできる事ではありません」、吉田氏「自由にして明朗な改変」、「自他合一の推敲」等の評価である。)。

しかしながら、これらの否定的評価は、正当なものであろうか。

 もちろん、「芸術の創造性」という面では、安易な本歌取りかもしれないが(ただし、宗教思想家=修験道者としての円空にそのような資質を求める必要などない。彫刻芸術の面での「創造性」は実に豊穣である。)、円空は、自身の抱いた情感を(勅撰和歌集の中の)「一級の和歌」を十分に咀嚼した上で、その和歌に込められた作家の思いに「託して」歌っているのであって、円空自らがいわば「教養という名の」「高下駄を履いて」を和歌を詠んでいるのである。この意味では、『本歌取り』という手法を用いること自体で、「一級の和歌」の水準を満たしているともいえる。のみならず、円空の『本歌取り』を評して「もじり歌」と批判される方々は、円空の和歌に込められた「真意」を、正確に理解されているといえるであろうか。
 上掲369番の歌に戻ると、『袈裟山百首』に共通して、『けさ』(袈裟)の二文字を読み込む、という円空が自らに課したルールに沿って、古今集の『今日(けふ)』が『けさ(今朝)』に読み替えられ、『袈裟山』ゆえに『近江』の掛詞を放棄して、『逢う身』の意味に一本化されている。
 だが、円空作の上掲和歌の中で『袖の露けき』に込められた本歌の情感(「袖が露で湿って、別れの悲しきが身にしみてきました」)はどのように理解したらよいのか。私は、円空自身の「ある人物」への思い(「別れの悲しさ」)が隠されてるのではないか、と踏んでいるのだが…。

 例えば、円空作「袈裟山百首」の中の次の和歌はどうか。

●秋はきぬ紅葉は宿にふりしきぬ道ふみ分てかく人もなし(25番)

この歌が「下敷き」にしているのは、古今和歌集の中の次の歌である。

○秋は来ぬ もみじは宿に 降りしきぬ 
 道ふみわけて 訪(と)ふ人はなし(287番)

[現代語訳]寂しい秋がやってきた。紅葉の葉も、わが家のまわりに散り敷いた。今や、その中に道を踏み分けて、訪ねてくれる人とてもない。
[注釈]秋、紅葉、独り居、と寂しいものを三段に重ねて強調している(前掲・奥村校訂参照)。

そして、円空の上掲和歌について、若森康平氏の現代語訳をみると、「秋がきて、紅葉した落ち葉が宿に降り落ちて道踏み分けて来る人はいません。」と書かれ(前掲)、「本歌」と殆ど同じ意味に理解されている。

しかしながら、円空は、上掲和歌においては、本歌の「訪(と)ふ」を「かく」に改変しているのであって、上掲若森訳では、この改変の趣旨が反映されていない。しかも、上掲和歌は、小島理事長も指摘されているように(前掲・205頁)、「袈裟山百首」の中では、いわば「破格」の歌であり、円空が当該歌集で自らに課した「けさ」の二字を読み込むというルールを破っているのであるから、特別な思いが読み込まれていることを窺わせる。
 私は、― 確たる根拠はないが ―、上掲和歌の中の「かく」は、「掻く」と「掛く」とが掛詞になっているのではないか、と踏んでいる。つまり、上掲和歌の歌意に関する私の解釈は、次のとおり。

●秋はきぬ紅葉は宿にふりしきぬ道ふみ分てかく人もなし(25番)

[歌意]寂しい秋になった。紅葉の葉も、千光寺(「宿」)の周囲に散り敷いたが、今や、門前の道に散り積もった落葉を「掻き」分ける(熊手か箒で掃除する)「あの方(宿主)」はもう居ない。私(円空)がお慕いしもうしあげていた(思いを「掛け」ていた)「あの方(宿主)」はもう居ない。ああ寂しい。

[分析・解釈]本和歌は、円空にとっての「宿」である「袈裟山」=千光寺を詠んだ歌である。円空は、もとより遊行僧であって「袈裟山の住民」ではない。そして、袈裟山には円空と気のあった住職がいたはずである。であれば、その住職が「宿主として」元気でいる限り、袈裟山=千光寺では、円空には、「本歌」で詠まれたような独居の寂しさはないはずである。上掲[歌意]で述べた「あの方」とは、俊乗(近世畸人伝に登場する当時の千光寺住職)のことで、円空は、実は、俊乗に先立たれた哀しみを、古今和歌集の歌に託して歌ったのではないか? 前掲「袈裟山百首73番」の歌も、同じ臭いを感じる。

 ちなみに、円空が「恋歌」に託けて、俊乗への慕情を歌った可能性を指摘する見解もある(吉田富夫「高賀神社蔵円空自筆詩歌集について・2」『円空研究=2』101頁)

 

追記

 円空の「神仏像」に関心のある方におかれては、円空の和歌は、「鑑賞」目的で読むものではなく、あくまでも彼の宗教意識を探求する目的で読むべきものだと思う。円空の読んだ和歌には、古今和歌集のみならず、新古今和歌集等の「本歌取り」もあるようなので、当然、西行法師の歌は、(同じ宗教家の和歌として)円空の教養の枠内に入っているだろうと思い、(円空の和歌を理解する上での)参考資料として西行の「山家集」を読み始めるに、「鑑賞用の」和歌としての出来映えは、円空の和歌と比べるに「月とスッポン」であることは、素人の私でも判る。