北口雅章法律事務所

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円空の神学にみる形而上学?

「円空の和歌」には、円空独特の宗教観を背景に詠まれた「神祇歌」(じんぎか)とみられる歌が少なくない。このような歌を、宗教的な知識なしに真意を解読するには無理があるかもしれないが、円空の難解な「神祇歌」の解読に挑戦してみた。誤解があれば、御教示賜りたい。

 

●仏とも 神ともしでの 無きならば
 うけては重き 榊葉の露[913]

[分析]「しで」は、「紙垂」(神前に供える幣(ぬさ)の一種で、雷光・稲妻の形をした紙)のことであろう。この「紙垂」がないと、「榊葉の露」を受けると「重い」と感じられる、ということは、「紙垂(しで)」が存在することによって、「榊葉の露」は「重み」がなくなる。つまり、「榊葉の露」とは、「榊葉」でお祓いされた結果、集まった邪悪なものが「露」のごとくに結晶して「重く」なっていたところ、「紙垂」の浄化作用で、軽くなる(=清められる)という神学的原理を詠んだ歌ではないか。

 

このような理解が正しいとすると、その次の歌の歌意は、後述のように解釈される。

 

●君が見る鏡のはしかみなれや 
うけてわびしき しでかとぞ思ふ[914]

[分析]「君」は天皇。「はしかみ(階上)」は、階段の上を指す。つまり、御神体にして、天皇=神のご真影を写す鏡は、階段の上に祀られていることになる。
「うけて」とは、前掲歌[913]と同様であるが、「わびし」の原義は、物事が思うようにならずやりきれない(つらい)という意味であり、ここでは、円空の心情を示していると考えられる。ところが、「はしかみ」が「しで(紙垂)ではないかと思えた」というのであるから、「はしかみ」も「しで(紙垂)」も、ともに階段状の形状をしおり、このイメージが重なって、浄化作用という面でも同じ働きをしてくれた、という感慨を詠んだ歌と理解できる。このような分析が正しいとすれば、次のような歌意の神祇歌と理解される。

 

[歌意]皇(すめらぎ)がご覧になるであろう鏡台の階上に向かって祈りを捧げたところ、あたかも鏡台が紙垂のようにお清めくださったのか、私(円空)のわびしい気持ちが清められました。