北口雅章法律事務所

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アル中のDV男を、脳神経外科手術で矯正できるか?

現在、最終局面を迎える医療裁判の関係で参考判例はないかと調査していたところ、偶々、「札幌ロボトミー事件判決」札幌地判昭和53年9月29日、判例タイムズ368号132頁以下)までもがヒットしたので、読み込んだ。
この事件は、今風に表現すれば、「アル中のDV男に対し、その妻の同意のもと、脳神経外科手術(ロボトミー手術)を実施した結果、精神科医Aと、脳神経外科医Bが訴えられた。」という裁判である。

「ロボトミー」というのは、「脳の一部(前頭葉)に侵襲を加えて、精神症状を改善する方法」、より具体的には、「大脳の前頭葉皮質と、間脳の視床とをつなぐ神経繊維を切断する手術」である。「前頭葉」は、いうまでもなく、人間らしい精神活動(意欲・自発性、創造性、喜怒哀楽、思考等)を司る機能をもつ。したがって、そのような前頭葉(大脳)に侵襲を加えれれば、人格変化をもたらす危険性があることは、素人でもわかりそうなものだが…。

本件患者は、方々で常習的に飲酒して暴力を振るうため、爆発型・意思薄弱型の精神病質にしてアルコール中毒症と診断された。かくて、患者は、昭和48年4月、「左開頭式」のロボトミーを受けたところ、その後、術前の状態に戻ったため、同年6月、今度は「右開頭式」の受けたところ、無気力・怠惰・単純浅薄・幼児化という人格水準の低下(「廃人」というべき事態)をきたした。
「こんなはずではなかった」という想いを家族が抱いたかどうかはともかく、患者家族全員(夫妻と子2人)が原告となって裁判に至った。

はたして、「ロボトミー」なるものが、そもそも「医療」ないし「治療」の名に値するものなのだろうか? その本質は、器質的な疾患を正常化させるものではなく、正常な機能を営む神経繊維を切断することで、精神疾患に自律的に反応すべき患者自身の反応形式を「改造」する、というものである。いわば「神の領域」に属する部分に、人間がメスを入れる、という術式である。

 今日の社会常識ではありえないことであるが、昭和50年(1975)、日本精神神経学会で「精神外科を否定する決議」が可決されるまでは、日本でも、現実に行われていたらしい。ちなみに、本裁判の方は、控訴審までは調べていないが、第1審は、ロボトミー手術以外の治療法(精神療法、作業療法と、その補助的手段としての投薬、電気ショック療法を年単位で行うこと)が先行的に十分試みられていないこと、患者本人の同意がないこと、を理由に違法と判断された。当時の判決の記述形式は、旧様式なのので、社会的背景や家族関係等のプライバシー情報が相当詳細に認定されているので、「歴史的な読み物」としても大変興味深い。
上記札幌地裁判決の裁判官名をみると、磯部喬・田中由子・千徳輝夫の各氏の名前が並ぶ。両端の御仁はご縁がなかったが、右陪席の「田中由子」判事は、その後、たしか名古屋高裁民事第1部の部総括として当地に転勤されてみえたことがあったのでよく覚えてる(「平たくいうと、どういうことですか?。もっと、分かりやすく話してください!。」などと、私の「大変わかり易いはずの」言葉遣いにも、文句をつけられ、結局、和解を受けざるをえなかった事案が約1件あった。)。

そういえば、「ロボトミー手術」と聞いて、われわれ世代の「手塚治虫」ファンが想い起こすのが、ブラックジャック・第58話「快楽の座」だ。この話は、せっかくの傑作だったのに、障害者団体から「ロボトミー手術を美化」している、などと「言われないのない」批判を浴びて、遺憾ながら封印されてしまった。ところが、ネット社会では、ありがたいことに、この作品を紹介してくれているサイトを見つけた。
 https://premium-goma.com/blackjack-kairakunoza/#st-toc-h-2

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 ちなみに、映画「カッコーの巣の上で」は、ロボトミー手術を受けて廃人になった登場人物の姿を描いた作品である。