北口雅章法律事務所

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「アレティストとしての(亡)星野英一」先生であれば、「同姓婚」訴訟判決をどうみるか?

「同姓婚」をめぐっては、下級審の裁判で、これを認めていない現行法制が「違憲」ないし「違憲状態」にある、という判断が相次いでいる。高裁レベルでは、遺憾ながら「合憲」判断は未だなく、先般、札幌高裁が「違憲」判決を出した(いずれ、全国各地の高裁判決が出揃った段階で、最高裁判例が出るものと思われる。)。だが、ここまでくると(憲法24条「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」との文言に忠実な立法・行政を「違憲」と言い放つのは)、グローバルなリベラリズムに毒され、伝統的な社会制度を無視するものであって、もはや「司法の範疇」を超えた、裁判官独自の「憲法制定権力」の発動ではないか。

 

先般、大村敦志先生(東京大学名誉教授・民法)の論文「アレティストとしての星野英一」を読んでいて、もし仮に星野英一先生(東京大学名誉教授・民法) が生きてみえたならば、「同姓婚を認めていない現行法」の違憲判決群に対し、どのような判例評釈をなされるであろうか?、と、ふと考えた。

私が学生時代、大学の民法講義は、第1部(総則・物権:米倉明教授)、第2部(契約・不法行為:平井宜雄教授)、第3部(債権総論・担保物権:能見善久・当時助教授)、第4部(親族・相続:星野英一教授)のカリキュラムが組まれており、婚姻制度に関しては、第4部(親族・相続)で、星野教授の講義を受けた。そして、私は、学生時代、星野英一教授の判例評釈集を真面目に読むことこそが最上の勉強法であると思い込んでいた(このことが司法試験合格を遅らせる原因の一つになることは、当時、全く考えていなかった。)。ちなみに、星野教授の教科書『民法概論』は、債権各論の途中で途切れており、したがって、同教授は、親族法・相続法について、教科書は書かれていない。

なお、大村先生は星野教授の弟子で、大村論文「アレティストとしての星野英一」でいう「アレティスト(aretiste)」いうのは、フランス語で「判例評釈者」という意味の言葉らしいが、「星野の判例研究の価値は、自他ともに認めるところである」と述べられている。

本題に戻ると、我々の学生時代は、勿論、「同姓婚」訴訟など全く扱われなかった。「婚姻」の本質は、「男女の終生の共同生活を目的とする結合」であって、その実質的要件として、「婚姻は『男女が』終生の共同生活を約する私法上の契約」であると習うからである(我妻栄・有泉亨「親族法・相続法」参照)。

今は亡星野教授とて、生前、「同性婚」の問題など考えられたことなど、全くなかったであろう。
だが、星野教授の「婚姻」に関する思考回路を知る手掛かりとなる判例評釈が一件ある。これが、いわゆる「臨終婚」(高齢の男が、内縁関係にあった女性のために、臨終間際に婚姻届出書を作成していたが、届出当時、既に意識を失っていたケース)の有効性を認めた最高裁昭和44年4月3日判決の判例評釈(『民事判例研究第三巻』所収)である。この判例評釈集は、実家に置いてあるので、今、読み返すことはできないが、大村論文「アレティストとしての星野英一(三)」によると、この判例評釈の中で、星野教授は、「婚姻意思とはなにか、という根本問題」に言及されており、この関係で、「民法上の婚姻とは、…結局は財産変動の要件」であるという見方を示されており、「法律行為(北口注:相続のことであろう。)を発生させる意思で十分」という「大胆な考えが主張されている。」とのこと。

「民法上の婚姻」とは、所詮、「財産変動の要件」つまり、相続権限の発生要件の問題に還元されるとなれば(相互の扶養は、内縁の男女と同様の処理が可能であろう。)、星野説によれば、婚姻制度を「(個々人の)アイデンティティー」の問題に結びつけて考えることや、個人の尊厳をなす人格」の問題を「婚姻」制度に持ち込むのは、「筋違いだ」と言っていいのではないだろうか?