北口雅章法律事務所

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円空は、何故「裳懸座を極端に高くした」仏像を造顕したのか

円空は、寛文9年(1669年、当時38歳)頃岐阜南部を中心として、「裳懸座を極端に高くした」仏像を数多く造顕し、遺している。

《左から、薬師如来[岐阜市中屋・薬師寺]、阿弥陀如来?[羽島市上中町長間・薬師寺]、薬師如来[大垣市石津町・天喜寺]》

 

 上記時期、円空が、「裳懸座」を極端に高くした理由について、「論理」で説明することは無理だし、客観的には検証できない。ここは、やはり(イタコに憑依するなどした)円空自身の口から語ってもらうしかない。

 もっとも、円空がどのような「発想」から、「裳懸座」を高くした仏像を造顕したのかは、何となく想像がつく。

 私見では、「神=仏」は、「霊山の高いところに」鎮座まします(あるいは、それより「高いところから」降臨してくる)という修験者の発想と、円空独特のユーモアの現れではないか、と思う。修験者は、ときに霊山の洞窟に住み込んで「胎内回帰」による「再生-蝉脱-解脱」を図るが、それに先立ち、まずは山頂をめざす。その登山の過程では、足元を見ながら歩くが、それと同時に、時折、神=仏が鎮座まします山頂(終着点・目標)を見上げ、見つめつつ歩くのであって、「道なき道を」登って行くのではないか。上掲円空仏の「裳懸座」の高さは、その山頂を目指す、行者にとっての、行程の距離感・高さを象徴しているように思える。

……てなことを書くと、次のような反論が予想される。
 だったら、岩座を刻すべきであって、裳懸座を刻すのは不合理ではないか、と。

 私のブログ読者には、少なくとも約2名の先達(円空学会会長のみなず、同学会監事)にも読んでいただいていることを最近になって知った。したがって、いくらブログとはいえ、先達からの批判にも「ある程度は」耐えられるレベルの記述を心掛けざるを得ない。たとえ単なる思いつきレベルのものであったとしても…。
 上記批判に対しては、円空の発想の中には、「神=仏」が鎮座まします霊山は、その全体に「神=仏」が宿っている(あるいは、山全体が「神=仏」を構成する)、といった山岳信仰、もしくは、天台宗系密教特有の「物神化」的な思想でも説明がつくのではないか、と思う。