北口雅章法律事務所

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徳川宗春公と 相応寺と ※追記あり

「相応寺」のはずが 分「不相応」?

 亡父が生前,父を初代とする北口家の墓地(以下「本件墓地」という。)
を購入してあった。
 WADASUは,父の生前,「由緒ある『相応寺』というお寺の墓地で,
 徳川家の家老のお墓の近く。」だとは聞いていたが,一度も見たことがなかった。
 が,今日(9月3日),母の案内で,妻を連れて,墓地に出向くと,
 ちょっと驚嘆した。分不相応にも思える場所に位置していたからだ。

 本件墓地は,名古屋市の東部にある平和公園内の,相応寺の区画(墓石群)の中にあった。
 そして,相応寺の区画は,丘陵地の高い方を頂点として,斜面を扇状に拡がっていたが,
本件墓地は,その扇状地の頂点(扇頂)にかなり近い位置にあり,遠方の景観も素晴らしかった。
 しかも,本件墓地の前面(低い方!)に,
寛永・正保・延宝年間(注:江戸時代,徳川家光~家綱の頃)に建てられたという,
随分立派な古い墓石が約4基,ずらりと横並びになっていた。
(後で住職にうかがったところ,尾張徳川家の歴代ご家老の墓だという。)

 

 そして,なんとなんと,本件墓地のすぐ左横に,
「徳川宗春墓碑→」と書かれた案内表示が出ているではないか。
 

徳川宗春公といえば,周知のとおり第7代尾張藩主で,
「質素倹約」を旨とし緊縮財政政策で知られる八代将軍・徳川吉宗公の時代,
逆に規制緩和策をとり,地場産業の保護育成に努め,農民の収入を増やすなどとして,
現在の名古屋の発展の基礎を築いた名君にして,かつ,風流な殿様として知られる。
 早速,墓碑に詣ると,南山大学教授・安田文吉氏の文で,
宗春公の上記人物像と,そのお墓が太平洋戦争の折,
名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受けて,一部が破損されたところ,
市民の協力を得て修復された旨を紹介した案内板が出ていた。
(ひとりごと:それにしても,「本件墓地」が,
 宗春公の墓碑よりも「高い」ところにあっていいのだろうか?

 ちょっと,分不相応な感じがしなくもないが・・・)

 

「相応寺」に突撃

  本件墓地を視察した後,納骨について住職に相談したいと思い,
その足で,相応寺に出向いた(覚王山東の末盛通2丁目の交差点を200~300m北上したところにある。)。

 恥ずかしながら,私は,相応寺について,全く無知であったが,
門前に出向くと,立派なお寺であったので,またまた驚嘆してしまった。

 

 門前横の立て札に,名古屋市教育委員会監修の相応寺紹介文が表示されていた。
ちなみに,相応寺の概略は次のとおり。
  江戸時代,尾張藩の初代藩主は,いわずと知れた徳川義直公(徳川家康の九男)であるが,
その義直公が,寛永20年(1643年),母・相応院おかめの方(家康の側室)の菩提
のために建立したとされる。浄土宗鎮西派。
 なお,本寺は,もとは名古屋市東区山口町にあり,昭和初期に,現在地に移設されたが,
本堂は,創建当時のものであるとのことである。
 住職の話では,名古屋城内にの「相応院の間」があり,そこへの出入りが許されていたのは,身内の他は,相応寺の住職だけだったとのことで,
本件墓地のあたりは,もともとは相応寺の住職らのお墓があったらしい。

(タブレットで,本件墓地の位置を確認したご住職の第一声が,「[前代住職から]いい場所買ったね。」だった。やっぱり,分不相応な感じがしないでもない。が,ご家老らのバックを支える役目の位置といえなくもない。)

そもそも,平和公園の敷地は,もともとは相応寺の所有地であったが,名古屋市内には,
寺が多く,各寺の周囲に墓地を配置するのは,都市計画上不都合であるため,
戦後の大規模な区画整理事業(戦災復興都市計画)に際して整備され,
名古屋市内の多くの墓地が平和公園内へ移転された際,相応寺の所有地を分譲したとのこと。
 ちなみに,相応寺のご住職は,「名古屋城天守閣・木造化」に賛成であった!

尾張徳川家にお近づきになれたような気がして,妙に嬉しい日であった。

 

※追記(平成29年9月10日)

 相応寺の住職から,父の購入していた墓地の向かいにあるのは,
ご「家老」の墓だとうかがっていたが,只の家老ではなく,「附家老」の墓だった。
家康は,徳川将軍家による幕藩体制を強化・補佐するとともに,
「徳川の血統」を守るために,尾張藩を筆頭に「御三家」を設けた。
具体的には,尾張藩に九男・義直,紀伊藩に十男・頼宣(よりのぶ),
及び水戸藩に十一男・頼房(よりふさ)をそれぞれ配置した。
江戸将軍家と「御三家」とは,宗家・分家の関係にあるが,
江戸将軍家としては,「御三家」に反逆されては困るので,
藩政の監視役を必要とした。
この役目を担わせるべく,徳川将軍家が,御三家の各藩に配置したのが,「附家老」である。
「附家老」は,通常の諸藩の家老とは異なり,家督と家老職が世襲であったために,
隠然たる力をもつようになった,
尾張藩の「附家老」は,成瀬家と竹腰(たけのこし)家がこれを担った。
(山本博文監修「あなたの知らない愛知県の歴史」洋泉社 参照)

ちなみに,父購入の本件墓地の真向かいにある墓石には,
「竹腰山城守 ×××」,「竹腰近江守 ×××」などと刻まれている。