北口雅章法律事務所

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「明恵上人」と「麻原彰晃」との違い

保元・平治の乱に続く源平の争乱等で,社会が不安定となった転換期に興隆したのが,鎌倉仏教だ。阿弥陀如来(他力)による救済を志向して浄土教の教理を説いたのが,法然(浄土宗),親鸞(浄土真宗)であったのに対し,中国からの「輸入」による座禅をもって救済(悟り)を志向したのが栄西(臨済宗),道元(曹洞宗)だった。そして,武士の支配が安定した鎌倉中期に勃興したのが日蓮宗(日蓮)と時宗(一遍)である。

 これら当時の「新興」宗教に対抗して,旧仏教内での改革の動きを担ったのが明恵(華厳宗),解脱(法相宗),叡尊良観(律宗)らの僧侶だ。

といった高校時代に学んだ「受験知識」を復習した上で,

「明恵上人」(鎌倉時代の僧侶で,華厳宗の中興の祖)にまつわるエピソードを一席。

「明恵上人」は,「心眼」を修得してたようだ。

本堂で勤行の最中,明恵上人が弟子に対し,「庫裏(くり;寺の台所)の手水鉢(ちょうずばち)で虫が溺れているから,行って助けて来なさい。」と命じたので,弟子が行ってみたところ,実際に虫が溺れていた。弟子が驚いて明恵上人に報告すると,明恵上人は弟子に「人には言うな。このようなことは少し修行したら誰にでもできる。人に言うと誤解が生じるから言うな。」と口止めしたと伝えられている。

このエピソードを著書の中で紹介している
東山紘久先生(京都大学名誉教授)のコメントは,次のとおり。
「最近のどこかの宗教家とずいぶん違うでしょう? 本当に偉い人は,人が誤解するようなことは言わないし,まして自己宣伝などしません。しかし,これほど偉い明恵上人でも,未来予測はしません。『未来は誰にもわからない』のです。」と
(東山紘久「プロカウンセラーの聞く技術」創元社116頁)

この本の第1版第1刷発行は,2000年(平成12年)9月20日

麻原彰晃の逮捕は,1995年5月16日。
東山先生の上記コメントの中の「最近のどこかの宗教家」として,
麻原のことが念頭にあったとみて,ほぼ間違いないであろう。

麻原の罪状は万死に値するが,
『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれた彼の大学受験時代を読むと,
身につまされる。

「(松本,後の麻原は,)東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る。1976年(昭和51年)1月、熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める。鍼灸は上手だったとの患者の証言がある。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける。この頃既に「弁護士か宗教家になりたい」と語っていた。

1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール(東京都渋谷区)に入学したが、東大受験は3度諦めている。広瀬健一によると麻原がこれを挫折と捉えていたかは不明で、自動小銃密造事件の際には広瀬らに大学受験の思い出を楽しそうに自分語りしたという。また、理系学問に興味があった。英語や中国語も独学でやっていた。

1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナールで知り合った松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。

この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、四柱推命や気学を研究し始める。だが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけ、台湾鍼灸、漢方、断易、六壬を経て、奇門遁甲と仙道にたどり着き、神秘体験を経験する。さらなる修行を求めて以前は嫌いだったという宗教に近づき、GLAの高橋信次の書籍、中村元や増谷文雄の翻訳仏典により、阿含経そして阿含宗に出会う。」

(以上,引用)

彼奴に影響を与えていたのは,やっぱり悪徳僧侶「桐山靖雄 」だったのだ。