北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

贈られてきた本 ⑵  江川香竹著 「川のように 風のように」

江川香竹先生は,「知る人ぞ知る」書道と尾張繪の大家である(昭和36年から同48年までの三期・名古屋市長を務められた杉戸清さんが,香竹先生の後援会長をされていたが,ここでは栄誉ある受領歴には触れない。)。

実は,この香竹先生は,何を隠そう私にとっては,事務所経営上の大恩人の一人である。私がイソ弁をしていた石原事務所を独立してまもない時期,香竹先生の書道のお弟子さんにして,会社経営をされていた方を,私の顧問先に若干名紹介してくださったお陰で,私は,「儲からない仕事」ばかり手がけていても,何とか事務員の給与を払い続けることができた。香竹先生が,何故,若輩者だった私を支援してくれたか? といえば,実は,香竹先生は,私の亡父と同じく,昭和6年の早生まれで,亡父と何故か気が合い,馬が合ったようで,亡父の「酒飲み友達」だったからだ。

その香竹先生が,立派な額縁のついた「書」と御著「川のように 風のように」を事務所に贈ってくださった。

早速,拝読。

生い立ちの記から,家族のこと,昭和初期の思い出話が語られるが,
「上前津の交差点」だの,「大須界隈」など,
私の学生時代のテリトリーの「昔」が,いろいろ出てくるので非常に興味深い。
例えば,「大須観音」は,「南」を向いているのが当たり前だと思っていたが,もともとは,東を向いていて,昭和20年3月19日の空襲で焼失したをの機に,南向きに再建されたらしい。なるほど,これで,大須観音通と仁王門通が,東西方向にに走り,大須観音通を東端から西端に進行すると,どうして本堂の東側側面に行き当たるかが解る(前から,変だなぁ,と思っていたが・・・)。
ちなみに,名古屋城が,空襲で炎上・焼失したのは,5月14日とのこと。

香竹先生には,三歳年上の兄と,三歳年下の弟がみえたが,
お兄さんが小学三年生のときに,腹痛を訴え,往診に来た医者がバタバタしていたところ,朝,亡くなっていたという。死因は不明だが,お母様は,「前夜,芋切り干しを出したのがいけなかった。」,「それを食べたので,夜中に胃が膨れて破裂して亡くなった。」といって,ご両親は,お亡くなりになるまで,お兄様の死を嘆き悲しんだとのこと。
(・・・医療過誤を手がける弁護士としては,“虫垂炎の見落とし(?)”を疑うが,当時の医療水準では,外科的手術もできず,救命が困難だったかもしれない。)

昭和48年3月3日,お父様が,心筋梗塞で亡くなられた(享年76歳)。
その葬儀をすませた2日目,今度は,お母様が,脳溢血で倒れ,城西病院での入院3日目,かすかに意識を回復されたお母様が,「今,お父さんとお昼ご飯を食べたから,一緒に山海の珍味を食べたから,いらんよ」と言ってにこにこし,その後,まもなく亡くなられたとのこと(享年73歳)。生前,お母様は,常日頃,「私はお父さんが死んだ三日後に死にたい」と話してみえたとのことであるから,理想的な亡くなられ方ですね。

香竹先生は,「竹」を師と仰ぎ,「杉」のご縁に支えられたようだ。
香竹先生の雅号は,漢字の大御所・高塚堂先生からいただき,
書道は,宮本竹逕先生から習ったとのこと。
そして,後援会長は,亡戸清・元名古屋市長で,
御著の編集者は,浦成之氏ときた。

香竹先生の本名は,平野奈子(しなこ)さんである。(「鵄」の音は「シ」だが,訓は「とび( 鳶)」だ。)名前の由来は,お父様がシベリア出兵の折,恩賜の「金勲章」受勲の夢を果たせなかったことから,その夢を娘の名に託したとのこと(ちなみに,香竹先生は「紺綬褒章」を受章してみえる。)。

実は,私は,香竹先生の本名が「奈子」さんであることは,
香竹先生の上記御著を読む前から知っていた。
非常に“苦い”失敗の思い出(「若気の至り」)があるからだ。

弁護士として独立して間もない時期,
突如,香竹先生からお電話をいただいたことがあった。
「(香竹先生からご紹介いただいた)顧問会社のA社長が倒れ,
ご子息が,今,相談にみえている。どうしたらいいか?」
という相談だった。
A社長は,会社の全株式を一人で所有し,ワンマンだった。
食事会のときなど,酒類を勧めても一滴たりとも飲まなかった。
肝硬変が進行しており,医者から禁酒を厳命されていたからだった。
そのA社長が,肝性脳症に陥り,余命数日とのことだった。
時折,昏睡から意識を戻すが,
「会社の引き継ぎをどうしたらいいか?」というのだ。

私は,急遽,香竹先生とともに,A社長の入院先(愛知医科大学附属病院)に出向き,A社長を見舞った。病室に出向くと,A社長の全身は,黄疸のため,真っ黄色に染まり,肝がんの発症を窺わせたが,運良く,私が見舞ったときは,意識を回復した時期だった。勿論,A社長も,死を覚悟していた。
そこで,私は,A社長に尋ねた。
「会社の株は,どのように相続させたいですか?」と。
A社長は,答えた。
「弟と,長男に,半分ずつ分けて欲しい。」と。
その意思に従えばよかった。
が,そのときの,私は,正直なところ,「邪念」があった。
香竹先生を味方に付けて,私に相談を持ちかけてきた長男に恩を売ろうとしてしまったのだ。すなわち,私は,このとき,社長に対し,思わせぶりに話しかけた。
「社長,本当に半々ずつで良いのですか? ご子息を過半数にしておかないと,
ご子息の意見と,弟さんの意見が対立したとき,会社は動かなくなりますよ。」
と。このとき,病室に付き添ってみえた,A社長のご婦人が,(私の意図を察したのか)横から異を唱えた。
「あなた!,○○(長男の名前)に過半数をあげてください。」と。
A社長には,既に筆記能力はなかったし,このご婦人の意向に反する意思を表明するだけの気力も,失せていたのかもしれない。
A社長が,「わかった。」と言ったところで,
私は,ご婦人に病室から外に出てもらい,
急遽,死亡危急遺言書(民法976条)を作り始めた。
この遺言書を作成するには,証人が三名必要だ。
一人は私,もう一人は,香竹先生。
そして,もう一人は,病院の主治医に頼んだが断られたので,
偶々,そのとき,A社長の見舞いに見えた,
東海ラジオのアナウンサーの松原敬生氏に証人を頼んだ。
そう,私が自筆で作成した遺言書にサインをしてくださった,
香竹先生の自署が「平野奈子」だった。

が,まもなくA社長が亡くなった後,
顧問会社が破産するまでには,それほど時間を要しなかった。
カリスマ的なA社長亡き後,人柄もよく,社員の信望を集めていたのは,
実は,社長の弟の方だったのだ。次期社長に就任した長男の方は,
次々に強権を発動してしまい,優秀な社員が次々に会社から離反してしまっていた。

実は,私は,A社長の遺言書につき,家庭裁判所で確認を受ける際,
ウッと直観的に「ため息」をつくことがあった。
実は,戸籍を取り寄せてわかったことであるが,病室に付き添ってみえたA社長のご婦人は,実は,3番目の後妻さんで,次期社長となった長男とは血縁がなかった。
当時の私は,人間関係の機微を深読みすることができなかった。
その後妻さんは,「我が子への愛情」から,長男サイドに立ったかは疑わしい。
先妻の息子(A社長の連れ子)に恩を売ることで,その扶養を期待したのかもしれない。が,その目算は裏目にでて,長男は,「義母」とは疎遠になったというウワサを後日,耳にした。

やっぱり,A社長の経営判断は正しかった。
私が,いらぬお節介をしたために,・・・
奈子」の名前をみると,弁護士として「痛恨の思い出」が,いやがおうでも蘇ってくる。