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国宝 「金印」 の真贋論争について

今朝の朝日新聞(2017.10.22)に 「国宝『金印』は本物?」と題して,
江戸時代,福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」の「金印」(以下「本金印」という。)に関する真贋論争についての紹介記事が載せられていた。

 率直に申し上げて,朝日新聞の記事は,記述がぼやけていて解りにくいが,要するに,
 偽作=贋作説の代表例として,「当時の金印を取り巻く歴史背景」( ←何のこっちゃ? )を根拠とする三浦祐之氏(古代文学研究者)の所説と,「加工痕の研究なくして製作地はわからない。技術的に観察すれば後世のものだ」( ←何のこっちゃ? )という鈴木勉氏(工芸文化理事長)の所説をあげた上で,「真印説」の代表格として,石川日出志教授(明治大学)の「文字の形から後漢初期の限定できる。金属の組成も紐(つまみ)の時間的変化も矛盾はない。」という所説を紹介し,なお議論は「膠着状態」←何のこっちゃ? にあるとしている。
 その上で,朝日新聞(編集委員・中村俊介)は,「真印説」を擁護する新説である大塚紀宣氏(福岡市埋蔵文化財課)の改変説を紹介している。曰く「金印の紐はヘビにしてはなにか不自然で,もともとラクダだったというのだ。後漢帝国が北方の民向けにラクダ印を用意したが,倭が南方にあることに気づいて急きょヘビの紐に作り替えた―」と。

 この記事を読んで,つくづく思うことは,やはり考古学の世界においても,論点を考察する上では,われわれの「健全な社会常識」というものが必要だ,ということである。一般社会常識を働かせて,両説の妥当性を比較考察すれば,既に決着はついており,「論争」というに値しないように思われるからだ。理由は後述する。

ここで,お復習い(おさらい)をしておこう。

われわれの世代が,高校時代に習った「山川出版社」の「日本史」の教科書には,
「小国の分立」と題して,次の趣旨の記述がある。

紀元前108年,漢の武帝は朝鮮半島を領土とし,楽浪郡などの4郡をおいた。
このころの日本の状態は,中国の歴史書に記載されている。
1世紀にできた「漢書」地理志によれば,「倭人(日本人)」の社会は百余国に分かれて,
定期的に楽浪郡に使いを送っていたという。
また, 「後漢書」東夷伝によれば,建武中元2年(紀元57年)に「倭(わ)の奴国(なこく)」国王が後漢(25-220)の首都洛陽に出向き,光武帝(位25-57)のもとに朝貢して印綬を受けたことが記載されている(「光武,賜うに印綬を以ってす。」)。これらの記事から,紀元前後から2世紀の初めにかけて,九州北部を中心とする西日本の各地に小国が分立し,中国と交渉をもっていたことが知られる。

 そして,上掲・教科書にも記載されているとおり,後漢書に出てくる「倭の奴国王」が光武帝から授けられたという印綬は,江戸時代(1784年[天明4年])に福岡県志賀島にて,農夫によって偶然に発見され,儒学者亀井南冥によって,『後漢書』に記述のある金印であると同定され,現在は,文化財保護法に基づく国宝に指定されている。ちなみに,本金印は,発見者である農夫(甚兵衛)から,福岡藩主黒田家に渡り,一時,東京国立博物館に寄託された後,平成2年(1990年),黒田茂子氏(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市(福岡市美術館)に寄贈され,現在は,福岡美術館にて保管・展示されている。

真贋論争については,
 偽造説にもいろいろ言い分はあるであろうが,誤ってるといわざるを得ない。
 高倉洋彰名誉教授(西南学院大学)及び西嶋定生名誉教授(東京大学)の各説を総合すると,江戸時代に贋作者がいたとしても,その贋作者は,漢の官印の紐(つまみ)に蛇紐(蛇の形をしたつまみ)があることを知り得ず(『漢旧儀』から,亀紐か駱駝紐の存在を知り得たにとどまる。),サンプル・モデル(模倣対象)なしに単なる「空想」から,蛇紐をもつ漢の官印を再現することは困難であったはずのところ,江戸時代,蛇紐をもった漢の官印(模倣対象)は,本金印以外には見当たらず,志賀島の農民によって本金印が発見されてから100年以上も後の1956年になって,中国の雲南省晋寧県にある前漢時代の墳墓(石塞山6号墓)から,本金印と同じく蛇紐をもち,かつ,製造時期・材質(金製)・寸法・様式が本金印と酷似する「滇王之印」が発見されていること,しかも,「滇王之印」の方は,その発見の経緯に照らしても,漢武帝が元封2(紀元前109)年に滇王に王印を下賜したという『史記』の記載の正確さが証明されたことに照らしても真作であることを疑う余地がないというのであるから,本金印が真作であることを疑う余地がない ように思われる。

 そもそも社会常識的に考えても,本金印は,たとえ贋作であっても国宝級の立派な純金製の印章であり,しかも,真贋論争を巻き起こすほどに「後漢時代の官印」を正確に再現していることに照らせば,「贋作者のプロファイル」としては,高度な考古学的知識をもった学者であって,単なる「工芸職人」ではありえず,そのような学者が,わざわざ材料費だけでも高額な出費をしてまで,贋作を作出する動機などないはずであるし(そもそも当時の学者は貧乏と相場が決まっていようから,経済的に贋作金印を製造することすら困難だったはずである。),そもそも学者(国学者にしろ,儒学者にしろ)が,福岡県志賀島といった田舎にて偶然農民が発見する状況を「演出」すべく,そのような田舎にまでわざわざ出向いて,「高価な贋作金品」を放擲したなどということを想定すること自体が,およそナンセンスであろう。そのようなありえもしない状況を想定せざるを得ないところに,贋作説の致命的な欠陥があるように思われる。

 なお,大塚紀宣氏(福岡市埋蔵文化財課)の改変説については,本金印の紐の形状(上掲・左)をもって,蛇と見るか,「駱駝の胴体」と考えるかは,考古学的観察能力の問題ではなく,社会常識的な美的センスの問題であって,本金印の紐の形状をみて,「しゃがんだ駱駝」の形状からクビをちょん切ったものという発想自体が,絶対少数説ではないかと思われ,到底納得のできるものではない。