北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

贈られてきた本 ⑴ 柳川喜郎「彼と私」

2019-08-07 同じ日に,三方面から,本の贈呈を受けたので,
2019-08-07 ⑶→⑵の順で,それぞれの関係でブログを書き始めたら,

(参照)

贈られてきた本 ⑵  江川香竹著 「川のように 風のように」2019-08-21
贈られてきた本(法律雑誌) ⑶ 「労働判例」2019-08-07

同日,ブログを書く予定だった三つ目の
標掲エッセイである柳川さんの「彼と私」については,
お贈りいただいたその日,読んで,感想と礼状を書いていたにもかかわらず,
後回しにしてしまった関係で,かれこれ約一ヶ月も期間が空いてしまった。

著者の柳川喜郎さんは,
「知る人ぞ知る」御嵩町(岐阜県)の元町長にして,
NHKの元解説委員である。
名古屋市全域を含む愛知県尾張地区に住む地元の住民約500万人は,
木曽川の水を飲む。かつて,この木曽川の上流に位置する御嵩町にて,
その昔,産業廃棄物処理場の建設計画を立て,
岐阜県知事・梶山氏と,H御嵩町長との密約のもと,
様々な違法・脱法を重ねた「不逞の」産廃業者がいた。T会だ。

産廃計画・反対派住民の支援のもと,御嵩町長に就任し,
T会の宅地開発計画に待ったをかけた柳川さんは,
T会と密接な経済的関係のある極道・右翼関係者2グループから,
自宅を盗聴されるなか,暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。
が,柳川さんは,奇跡的に生還し,住民投票の結果,
T会の産廃計画を阻止した。
名古屋市民にとっては,柳川さんは,恩人であり英雄である。

ローカルながら,その歴史的人物ともいうべき,
柳川さんに,先般,我が事務所にご足労いただき,
打ち合わせをする機会が約2回あり,いろいろお話をうかがった。
もちろん,ある民事裁判の関係でだ。
(進行中の事件につき,内容は秘密)

今年の7月30日に,その柳川さんから,SNSで
「小文掲載の同人誌送りました。お目汚しに。」
とのSNSを受信するとともに,送られてきた同人誌が,
「追伸 第3号」(2019.6)だった。

当該同人誌のトップに掲載された,
柳川喜郎著「彼と私」「彼」とは,誰か?

恐れ多くも,平成天皇だがね。
エッセイの冒頭
「彼とは,現上皇,前天皇,元皇太子明仁のことである。」
って,呼び捨てにしちゃって,いいのかな??
と思いきや,柳川さんは,平成天皇が皇太子時代,
恐れ多くも,皇太子の「ご進講役」家庭教師をされたご経験があるとのこと。

ホォ!!!

柳川さんと,平成天皇(明仁殿下)との関わりは,
私のような下々の者には,非常に興味深かったので,
ブログで骨子を紹介しておきたい。
(多分,私のブログ読者で,「彼と私」を読まれた方はいないであろうから。)

柳川さんと,「彼」平成天皇=明仁殿下)との「奇遇」は三回あった,とのこと

<第1回目>

1965年初夏,柳川さんは,NHK記者として,南極観測隊に随行して,その取材から帰国されてまもなくの時期だった。当時,明仁殿下は,美智子妃と新婚ホヤホヤで,「私生活優先のマイホームパパ」の毎日であることに危機感をもった,宇佐見毅・宮内庁長官が,愛知揆一文部大臣に,「明仁殿下に『何か,社会的な刺激を与えたい。』ので,『ご進講役』を手配して欲しい。」と相談した。そして,愛知文部大臣が,文部省幹部とともに「人選」にあたった結果,殿下の「ご進講役第1号」として抜擢されたのが,柳川さんだったとのこと。
 柳川さんは,永田武東大教授(第一次南極観測隊長)と,柳川さんへの「監視役」である岡野審議官(文部省大学学術局)とともに,東宮御所に出向いたとのこと(当時,美智子妃は,第二子・秋篠宮のご懐妊が判明した関係で,『ご進講』には立ち会わず。)。
 柳川さんは,南極の動物の生態について明仁殿下に語り,その関心を誘っておいて,「ペンギンの生殖」について解説を始めたところ,テーブルの下で,岡野審議官から靴を踏んづけられたとのこと(イエロー・カードのサインとのこと)。

 

<第2回目>

1975年2月,当時,ニューデリー(インド)に駐在されていた柳川さんは,愛知揆一・当時外務大臣から,ネパール王国のビレンドラ国王(第10代)の戴冠式に呼び出され,その後,カトマンズ(ネパール)の大使公邸・応接間での打ち上げパーティーで,皇太子ご夫妻と顔を合わせることになった,とのこと。
ネパールは政情不安定で,柳川さんが明仁皇太子に語った「ネパールも大変ですよ。」との何気ない一言が,どうやら明仁皇太子の気分を害したようで,「ネパールの王室と日本の皇室は単純に比較はできない。」と言ってむくれたため,柳川さんは,「私は何も皇室と王室が同じとは言ってない。このネパールはいま明治維新直後のようだと言ったまでだ。」と弁明したが,気まずい空気が漂い,柳川さんは,以後は沈黙を余儀なくされたとのこと。
 ここで最後に登場してくるのが美智子妃だ。パーティ終了後,皇太子夫妻が会場から寝室に向った際,一人一人に会釈したが,美智子妃は,柳川さんの前で立ち止まり,柳川さんの顔をじっと直視した上で,「柳川さん,1つ質問させていただいてよろしいでしょうか。」,「はい」,「インドのプラサド大統領はお元気ですか」と尋ねたという。独立後の初代インド大統領(ガンジーの弟子)の安否を尋ねるとともに,柳川さんを気遣うといった「細やかな気配り」には,やはり感銘を受ける。(柳川さんへの礼状にも,このエピソードに感銘を受けた旨を書き添えた。)

 

<第3回目>

柳川さんと,平成天皇との三度目の出会いは,1991年6月雲仙普賢岳(長崎県)が噴火し,火砕流が地元島原を襲った。その約1か月後の7月,当時,島原で火砕流被害をNHK記者として取材していた柳川さんは,被災地見舞いにみえた平成天皇ご夫妻を地元学校の体育館で見かけることになった。そのとき,平成天皇は,避難住民に声をかけるとき,膝を床につけて話をしたのに驚いたという。天皇が跪く姿を見たのは初めてだったとのこと。

柳川さんの標記エッセイは,他にも,いろいろなことが書かれてあったが,最後は,「ともあれ,明仁上皇,退位までいろいろありましたが,一歳違いの老人として,御同輩,長い間ご苦労さまでした,と言いたい」で結ばれている。