北口雅章法律事務所

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なぜ,大沼保昭ではなく,ヤスアキ・オーヌマなのか

大学時代・教養部のときだった,と記憶している。
大沼保昭先生(当時助教授)の国際公法の講義で,大沼先生が宣われた。
「日本人は,自分の名前をローマ字で書くとき,順序をさかさまにする。
日本政府が発給するパスポートですら,ヤスアキ・オーヌマであって,オーヌマ・ヤスアキではない。しかし,私は,オーヌマ・ヤスアキ(大沼保昭)であって,ヤスアキ・オーヌマではない!。したがって,私は,論文や書簡等で,自分の名前を表記するときは,必ずオーヌマ・ヤスアキと書く。」と。

学生時代は,随分と「つむじ曲がり」な先生やなぁ,と苦笑したものだが,
大沼先生が,一見些細にみえるこの問題に拘る理由は,支配的文化に対抗する「自己のあり方」に係わる文明論に波及してくる問題とお考えになるからで,それが講義のテーマでもあった。当時,大沼先生は,そのご主張を『中央公論』で発表されているとのことであったので,私は,講義の後,大沼先生の「反骨」(?)精神に興味を覚え,その論考を大学の図書館で読んだ記憶がある。

このほど,朝日新聞に,政府が「日本人の名前をローマ字で書く際、国の公文書では姓→名の順にする」との閣議決定をしたとの記事をみかけたので,亡大沼名誉教授の講義のときのことを思い出し,あの『中央公論』の論文を,もう一度,読んでみたいなぁと思った。

 

今から四十年も昔の『中央公論』のバックナンバーを見ようした場合,大学の図書館が保存しているか疑問だから,通常は,国立国会図書館に出向かないと読めまい。が,大沼先生の論考なら,論文集か,エッセイ集に収録されていないか?,と直感し,調べたら,あった・あった!,大沼保昭著 「倭国と極東のあいだ」(中央公論社)のなかに収録されている論文に目星をつけて,絶版となった同書(中古本)をアマゾンで取り寄せると,「『国際化』時代の陥穽」という論考(『中央公論』1982年6月号所収)が,まぎれもなく大学時代・図書室で読んだそれだった。

登場人物をみただけで,歴史を感じさせる。

曰く「・・・ローマ字で名前を書くとき順序をさかさまにするというのは,日本人の常識である。・・・。しかし,この常識も,他のもろもろの常識と同じく,すこし疑ってみるとはなはだ怪しげなものである。論より証拠,欧米でわが日本国首相はたしかにシゲル・ヨシダナスヒロ・ナカソネとされるが,中国の実力者・鄧小平(デンシヤオピン)氏はそのままデン・シヤオ・ピンであり,韓国の全大統領(当時)もチョン・ドゥ・ホァンである。なぜ,日本人の大沼保昭である私は,欧米ではヤスアキ・オーヌマと呼ばれたり,書かれたりしなければならないのか。」という問題提起だ。

そこで,大沼先生は,たまたま『ニューヨーク・タイムズ』が韓国に関する記事で,金大中,全斗煥,鈴木善幸の三政治家を扱っていたことから,同雑誌社の編集長に噛みついた。

・・・日本には鈴木善幸という首相はいますが,善幸鈴木という名の者はおりません。日本のやり方では,姓が先にきて,個人の名が後にくることになっているからです。
 日本人の名前を正しいかたちで書くと,西洋の姓名の順序とさかさまだから読者は混乱してしまうというが,あなたの理屈かも知れませんね。それでは,なぜ中国・朝鮮人の名前は正しい順序で書くのでしょう? もし名前が先で姓が後という西洋流を一貫させようというなら,中国共産党副主席は,鄧小平でなく,小平鄧と書かなければならないはずですが,如何?
 ・・・外国人の名前をその正しいかたちで表わすか,あるいは,あなた方にとって便利なやり方で表わすかという問題は,ただ名前の順序だけの問題ではありません。この問題が,あなた方が外国の文化をそれ自体として理解しよと努めているか,それとも,たんにあなた方のやり方に翻訳するのかという問題と深く結びついているのです。それは,あなた方が自分の常識にあわないさまざまな文化を認め,尊敬することができるか,という問題でもあります。もし日本の新聞が,カーター・ジミーとかレーガン・ロナルドと書いたら,いったいどういう気がするか,ちょっと考えたらどうでしょう。・・・(以下,略)」

しかし,

『ニューヨーク・タイムズ』の報道担当編集者から返ってきた返答は,予想されたものであった。

曰く「・・・『タイムズ』は明治以来このかたちにしたがっています。それがどうして始まったかは分かりませんが,・・・日本が欧化の道をたどり始め,対外関係において西洋の慣行にしたがおうとした時期にさかのぼるのかも知れません。・・・日本政府の公式の広報機関自身,英語の刊行物とニュース発表の場合,日本人の名前をひっくり返しています。・・・。したがって,われわれとしては,現在のやり方を踏襲するのが最もよいと感じています。このことから,われわれが『自分たちの常識にあわないさまざまな文化』を認めず,尊敬していないということにはならないと思います。・・・(以下,略)」

「そもそも日本人自身さかさまのやり方を使っているではありませんか」と言われてしまうと,言葉に窮する。この問題の根源は,「ヨーロッパが創った近代」と日本の対外姿勢の関係という問題に帰着する。すなわち,帝国主義のもと世界に進出してきた欧米に対し,まず欧米の植民地支配への危機感から,次いで,自らも世界の列強の一員たらんとして,懸命に自己を欧化し,他民族を支配する近代国家への道をやみくもに突っ走った。その過程で,近代日本が西欧文明を意識的・無意識的にお手本とし,一般的基準として受け入れ,逆に,非ヨーロッパへの優越感を育んできたことは否定できない。と大沼先生は説く。

しかしながら,異質なものから批判されることのない支配的な文明は,一元的に自己肥大化し,腐敗していくことは避けがたく,支配的文明は,まさに支配的であるがゆえに,無意識のうちにわたしたちの思考様式や行動様式,つまりわれわれの文化全体をその支配的文明に同化していくことから,一見「些細なこと」「取るに足らぬこと」であってもこだわり続ける必要がある。たとえ,名と姓の順序であろうと。
 文化というものは,しょせん,こういった些細なことの積み重ねにほかならない。支配的文明の無意識の同化力から独自の文化を守っていくには,こうした些細なことにこだわり続けるしかないのだから。

「現在の支配的文化とは異なる論理,異なる感性をもつ多様な文化をそれ自身の姿で理解し,尊重することがわたしたちにとって重要であり,それによって現在の近代ヨーロッパ文明の一元的支配から生ずる病理現象を治癒すべきだ」・・・というのが大沼先生のお考えですね。

『大沼保昭対ヤスアキ・オーヌマ』の問題は,『ヨーロッパが創った近代』と日本社会に生きる者との関係をどう評価するか,それに対してどのようにかかわっていくかという,わたしたちの自己のあり方を探る問題である。国際化国際化とかけ声だけは盛んななかで,われわれは知らず知らずのうちに,文化的植民地の道を歩んでいるのではないか。わたしたち自身が近代文明の自己肥大をますます推し進め,実は子孫にたいして,取り返しのつかぬ罪を犯しつつあるのではないか。

と,今から,約40年も昔に書かれた大沼先生の論考(あるいは,せめて私のこのブログ)くらいは,小学校教育の段階から英語教育を取り入れようとしているバカな文部科学省の役人どもに,是非とも読んでもらい,自省してもらいたいものだ。