北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

「平成の正木ひろし」を目指したが・・・

「正木ひろし(弁護士)」は,今や伝説的存在である。
特に法科大学院世代の若手弁護士は,彼の業績や思想のことなど殆ど知らず(実は,私もあまり知らない。),関心もないのではないかと懸念されるが,
彼の存在は,私の中では「反骨と正義の鏡」である。

私は,職業として弁護士を選択する以上は,
「平成の正木ひろし」を目指そうと考えた。
その後,多くの著名な刑事事件の受任にも恵まれたが,
結果は惨憺たるもので,
不本意ながら,正木ひろし先生の足元にも及ばなかった。
「国策事件」等の重大事件における刑事裁判官の心理と行動原理を知らず,
あまりにウブ過ぎたからだ。
(ただし,再審請求中の事件もあるし,再審を準備している事件もある。)

昔,亡父の郷里で高校(石川県立七尾高校)時代からの親友で
名古屋で弁護士をされている方(亡水口先生)の事務所を訪ねたことがある。
私が司法修習生だった時代(平成初期)のことだ。
なお,当時は,まだ進路を三択(裁判官・検察官・弁護士)で選べる時代だった。

水口先生から「東大法学部を出たなら,裁判官や検察官になった方がいい。
何故,弁護士を志望するのか。」と尋ねられたとき,私は,咄嗟に答えた。
「『正木ひろし』になりたい。」と。
私の発言を聞いていた当時の水口先生の事務所のイソ弁が(誰だったかなァ?),
横で,ククッと笑ったのをよく覚えている。
そして,そのイソ弁は,「正木ひろしですか。」と思わず声をあげた。

そのイソ弁先生が笑われたのは,
私の目標が,あまりに「雲の上」を目指す「現実離れ」のものだったと思われたからか,あるいは,「正木ひろし」が「奇人」と理解されていたからか,
・・・今では知るすべもない。

私は,「正木ひろし」のことをそれほど知っているわけではないが,
その当時,念頭にあったのは「首なし事件の記録」のことだった。

正木先生は,
太平洋戦争末期の昭和19年1月,茨城県の炭鉱で働いていた鉱夫Vが花札賭博の嫌疑で警察署に連行された後,警察の留置所で怪死した事件につき,炭鉱の経営者Sから相談を受けた。
 鉱夫Vの取調べ行った巡査部長Aは,警察医Bの解剖により,死因は,「動脈硬化に起因する脳出血」であるとの鑑定・診断をもって,Vの死体をSに引き取らせ,早く埋葬するよう強要した。そこで,正木先生は,四囲の状況から,鉱夫Vが,警察官から拷問を受けて死亡したものと疑い,秘かに,Vの遺体の埋葬場所である蒼生寺(茨城県那珂郡長倉村)に出向いてVの墓をあばき,Vの死体に外傷がないか,再鑑定するために,Vの生首を切り取って,東大法医学教室(古畑教授)に持ち込んだ。そして,その結果,死因は「外傷性の軟脳膜出血」つまり他殺と鑑定されたことから,正木先生は,巡査部長Aを拷問致死罪,警察医Bを証拠隠滅罪で,それぞれ告発した。
 その後,検察当局は,正木先生の告発を取り上げず,かえって正木先生を墳墓発掘,死体損壊罪で捜査を開始したため,正木先生は,憤慨して,単身,司法大臣の元へ乗り込み,直談判・抗議したところ,当時の司法大臣は,一弁護士の主張に耳を傾け,Vの墳墓に,法医学者二名(古畑・東大教授と中館・慶大教授)を派遣して,Vの上半身にも外傷の痕跡がないかを鑑定させた。両教授がVの墳墓に出向いたときには,「首なし」の死体が出てきて周囲が騒いだため,「首なし事件」と呼ばれることになった。
 警察医Bの剖検所見に記載れた,メスを入れた部位にその痕跡がなかったことから(したがって,剖検の事実は捏造されていたことになる。),検察当局も,巡査部長Aを起訴せざるを得なくなった(警察医Bは不起訴)。「首なし事件の記録」は,巡査部長Aが,予審・有罪→水戸地裁・無罪→東京高裁・有罪→最高裁・破棄差戻→東京高裁・有罪→最高裁・上告棄却・有罪確定に至るまでの記録であり,最終章は,「正義と真実は必ず勝つ」という標題の章で終わっている。

正木先生が,「首なし事件の記録」の「まえがき」で書かれた文章は奮っている。

「拷問の結果,死亡したものを,警察は病死と称してごまかし,そのまま押し通そうとしました。これが,当時48歳を迎えた弁護士であるわたしの血を逆流させ,魂に正義の火をつけたのです。」

「旧憲法の時代の刑事裁判では,…警官による拷問がつねに行われました。それはむしろ必要悪として,検察側ばかりでなく,裁判官も,いや,弁護人さえも黙認しているのが常識でした。そして,拷問のことに触れるのは,絶対のタブーでした。」

「攻防12年に及ぶ裁判ののち,当局にその不正を認めさせ,真実を明るみに出しました。これはわたしにとって,その後の人生に,決定的な信念を形作らせたと同時に,日本の人権史上に,くずれ去ることのない一里塚を築いたものと,ひそかに自負しております。

「長い歴史を通じてつちかわれた,権力を利用し,権力に迎合しようとする悲しむべきこの国の国民性は,法律が変わったからといって,すぐに改まるものではありません。」等々。

 

私のこれまでの弁護活動は,正木先生の足元にも及ばなかった。
それゆえ,彼が残した言葉には,共鳴できるところが少なくないが,
「正義と真実は必ず勝つ」という正木先生の信念には,残念ながら同調できない。

ちなみに,正木先生は,
「最初の弁護事件」というエッセイの中で,
次のようにも書かれている。

曰く,
「生れてハジメてやった民事訴訟に,私は第一審,二審,三審とも負けた。
 …(中略)…。
 法律事務所で訓練を得たことのない私は,書式大全をたよりに,訴状を書き,証拠を出し,前後三年間争った。その記録が焼けて手許にないのが残念だが,負けた理由相手方の偽証と,裁判官の非論理的な頭のためだった,と今も考えている。
 裁判に対する私の不信の念は,この時代から始まった。」とも。