北口雅章法律事務所

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「空海・高野山の教科書」に書いてあること

「空海・高野山検定」「公式テキスト」

監修/総本山金剛峯寺・高野山大学
「空海・高野山の教科書」 (枻(えい)出版)のうち,

「第一章 真言宗の開祖 空海の生涯」に書いてあること

835年3月15日

 空海は,弟子達を呼び集め,
 「私が禅定に入るのは来る21日の寅の刻(午前4時)である。」
 「天界(兜率天/とそつてん)にいき,弥勒菩薩の御前に侍(じ)し
  56億余年の後に慈尊(弥勒菩薩の敬称)のお供をして
  この世に生まれよう」と語ったと伝えられる。

同年3月21日
 空海は,大日如来の法界定印を結び,
 高野山の住坊(現在の龍光院・中院)で閉眼されたという。

49日目に,弟子達が,生前と同様に,大師の着衣を整え,
 「奥の院」へ移された,と伝わっている。

<大師「入定」から86年後>

921年10月,醍醐天皇より,空海に対し
  「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られることが決まった。

 そこで,東寺長者(東寺の管理者)であった観賢(かんけん)とその弟子が,
 空海に大師号のことを報告すべく,「奥の院」を訪れたところ

 髪・髭がボーボーで,着衣がボロボロの状態で,
 「瞑想」する空海の姿をみた。

 そこで,観賢は,空海の剃髪をし,醍醐天皇から賜った衣を着せた,とさ。

「高野山萬燈会(まんどうえ)の願文」(性霊集・巻第八)にある
「虚空尽き,衆生尽き,涅槃つきなば,我が願いも尽きむ。」
(宇宙がなくなり,悩み苦しむ衆生が居なくなり,さとりが尽きれば,,
 私の衆生救済の誓願は終わる。それまでは終わらない。) 

との誓願が,大師の「入定信仰」の拠り所といわれている。

 

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弘法大師・空海は,どのように葬られたか