北口雅章法律事務所

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鉈薬師堂の円空仏をめぐって⑴

今日(11月21日)は,名古屋が仏教界に誇る「覚王山日泰寺」(以下「日泰寺」)
の縁日(毎月21日)である。この縁日に合わせて,毎月21日午前10時から午後2時までの間,日泰寺の北西裏にある「醫(医)王堂」(通称「鉈薬師堂」)内に安置されている,ご本尊(薬師如来像)と円空仏17躯が公開される。(なお,「鉈薬師堂」の名称は,鉈掘りの円空仏を多数祀ることからの俗称である[円空研究3]。)
 かねてより視察に出向きたいと思っていたが,今日,昼休みの時間帯を利用して,
懸案の「醫王堂」(鉈薬師堂)見学に出向いてきた。

 いろいろ脱線するが,ブログ読者には,
しばし「鉈薬師堂の円空」談義にお付き合いいただきたい。
 
まずは,名古屋市を東西に走る「東山線」の覚王山駅を降りると,
地下鉄出口のすぐ横は,もう覚王山日泰寺の参道入り口だ。
北に向かって,正門をめざして歩いて行くのだが,縁日とあって,露店も立ち並び,なかなかの賑わいだ。

冒頭で,日泰寺について,「名古屋が仏教界に誇る」べきお寺であると書いた。その理由はご存知の方も多いと思うが,日泰寺(にっタイじ)は,「日本」と「タイ(国)」との合作の趣旨で,日本で唯一無宗派のお寺であり,釈迦の真骨(仏舎利)を祀ってある寺だからだ(「釈迦御真骨奉安塔」にお骨[舎利]が納められている)。1898年,北インド(ピプラーワー)にて骨壺が発掘されたが,その骨壺に刻まれた古代インドの文字をイギリス人の考古学者が解読した結果,釈迦の骨であると判断されたのだという。そして,インド政府が,その仏骨を仏教国のタイに贈呈し,次いで,タイのチュラロンコン国王によって,日本にも分骨されることになったため,日本仏教界では大騒ぎとなった。どの宗派が受贈しても角が立つことから,急遽,釈迦の真骨の受け入れのため,無宗派の日泰寺が建立されたという(明治37年=1904年)。ちなみに,日泰寺の本尊は,チュラロンコン国王から贈られてきた金銅仏であり,「覚王山」とは「覚り(さとり)の王」すなわち釈迦のことを指す(以上につき,谷川彰英「名古屋地名の由来を歩く」参照)。

 

どさくさに紛れて,大塚耕平先生(今や,民進党・党首!)のポスターが
あちこち,ちらほら,目に付く。

 
上掲写真の真ん中に安置されている,坊さんの像は,手に独鈷(とっこ)こそ持っていないが,どうみても弘法大師ですね。
日泰寺の正門の手前で,参道を左折し,直ぐに右折して,
日泰寺西側の側道をさらに北に歩いて行く。
その途中のコンクリートの歩道にも,鉈薬師堂の案内が出ている。

 

 

日泰寺北側を東西に走行する道路を渡ったところで,
やや西側にズレて,北側に入る路地を北方向に歩いて行くと,
すぐに,左手に「醫王堂」(鉈薬師堂)の門(下掲写真)にたどり着く。

 

門の右横に入り口があり,中に入っていくと,
すぐの正面にあるのが,「醫王堂」(鉈薬師堂;下掲写真)だ。

「醫王堂」(鉈薬師堂)の中は撮影禁止
しかしながら,外からは撮影してもかまうまい,と勝手に反対解釈し,
「醫王堂」という文字のある「扁額(へんがく)」(看板のこと[下掲写真参照])とともに,
 正面やや左側からお堂の内部に向けて撮影すると,朧気(おぼろげ)に,
左側に本尊と,右側の脇侍2躯が写っていた。

「醫王堂」(鉈薬師堂)の中に入ると,正面に本尊の薬師如来と,
左右に2躯ずつの脇侍(円空仏)が並んでいる。位置関係は,次のとおり。
 
  左から順に,① 観音菩薩,② 月光菩薩,③ 本尊(薬師如来),④ 日光菩薩,⑤ 阿弥陀如来と並ぶ。
 さて,正面真ん中の本尊は薬師如来であり,鎌倉時代に造顕された仏像であるが,
その脇侍の4躯は,いずれも寛永9年(1669年)に造顕されたと推定される円空作の仏像である。

ところで,薬師如来が本尊の場合,その脇侍は,日光菩薩と月光菩薩が定番である。
円空仏の中で,その具体例を挙げるとすれば,岐阜県美濃加茂市・板山神社の薬師三蔵像(下掲写真)が挙げられる(円空研究5・14頁より引用)。

ところが,鉈薬師堂の薬師如来(本尊)には,日光菩薩・月光菩薩の両脇侍のみならず,それに加えて,阿弥陀如来と観音菩薩までが,薬師如来の脇侍のごとくに,左右両端に安置されている。何故であろか。

鉈薬師堂は,寛文九年,隣国・明からの亡命してきた張振甫(尾張藩の医師)が,尾張藩主(二代目)徳川光友から,当時,尾張国春日井郡上野村にあった一堂と名古屋城天守閣築城の余財を下賜されて改築し,鎌倉時代から祀られていた薬師如来像を本尊とし,「新仏等〈円空仏〉をも安置」して再興した堂であるが,梅原猛先生は,張振甫が亡命の途上で,海賊に遭遇して,死亡した臣下の菩提の供養には,「死者を極楽浄土に連れていく阿弥陀如来と観音菩薩が適当」と考えられたからであるとの説を唱えてみえる(張振甫は,商人の名を借りて日本刀を持ち,日本の着物を着た海賊が出たことを幕府に報告している。)(梅原「歓喜する円空」194頁)。

しかしながら,張振甫が部下を弔う意思があったとしても,日本で発達した浄土信仰をもっていたかは別論であろう。

むしろ,阿弥陀如来は,徳川家・菩提寺(建中寺)の本尊であることから,阿弥陀如来を脇侍として配置することは,医王堂の本尊が,徳川家・菩提寺の本尊によって支えられていることを象徴しており,観音菩薩の脇侍としての配置は,まさに聖観音(観音菩薩)が「来迎する阿弥陀如来の脇侍」(梅原・184頁)であることに配慮して,左右のバランスをとる趣旨で加えられたと考える方が自然であるように思われる(来迎図などでも,雲に乗る阿弥陀如来の横に,観音菩薩が従者として描かれるのが定番である。)。

 もっとも,小島梯次氏の「鉈薬師の円空仏」(行動と文化研究会)によれば,鉈薬師の阿弥陀如来と日光菩薩の各頭部背面には,「刳貫(くりぬき)」「埋木」が施されており,他の「刳貫・埋木」の例によれば,其処には,梵字が書かれた紙に仏舎利を包んで納入させるとのことである。そうだとすると,鉈薬師の場合も,医王堂の発願者・張振甫の指示で,同様に,同人ゆかりの人物の供養をした可能性も否定できない。そして,このことは,梅原説の裏付けとなりうるものである(但し,「臣下」の骨を墓に埋葬せずに,仏舎利の如く扱うであろうか?という疑問は残る。)。