北口雅章法律事務所

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「報道どおり」であれば,違和感のある判決

作家の竹田恒泰氏が名誉毀損訴訟で敗訴した,という。
訴訟記録を見ていないので,正確な論評はできないが,
もし「報道どおり」であれば,やはり非常な違和感をぬぐえない。
竹田くんには,是非とも,東京高裁と最高裁の判断を仰いでもらいたい。
どこに違和感を覚えるか?

 

第1に,報道記者の表現に問題があるのかもしれないが・・・
 私見では,「差別(の)指摘」と,「差別主義者」と決めつける批判・評価とでは全く次元が異なる。また,「差別的な言論活動をする人物」という誹謗評価と,「差別やいじめの『常習者』」という誹謗評価とでは,やはり性質が異なると思う。
 具体的には,「(中華民族は)民度の低い哀れむべき方々」とか,「韓国はゆすりたかりの名人」という竹田氏の言動自体・評価自体は,客観的には不穏当だし,「差別指摘」と批判される余地はある。このことは,竹田くんも承知の上で,かの歴史的事実の数々を踏まえて,ブラックユーモア(?)的なウケを狙いつつ,「公正な論評」だと確信して評価していることは想像に難くない。
 しかしながら,竹田氏の「言論活動に対する」批判の範疇を超えて,竹田氏=「差別主義者」,竹田氏=「差別やいじめの常習者」というように論評することは,竹田氏の「人格自体」を批判的・否定的に評価するものであって,「人格そのものに向けられた」批判であり,人格攻撃そのものではないか。もっとも,「竹田氏=差別主義者」というラベリング自体も,一つの評価であって,「言論の自由」の範疇といえなくもない。この意味では,「批判者=山崎氏の意見」に対する評価・判断の趣旨自体の理解も分かれる余地はある。しかしだからといって,「裁判所が」公的判断のもとに「竹田氏=差別主義者」という評価を「公正な評価」だと認定することは,裁判所=裁判官自体が,「判決」=「公的判断」をもって,「竹田氏=差別主義者」として竹田氏に対する『人格攻撃』をしているに等しく,裁判の目的から逸脱しているのではないか,という疑問が生ずる。

第2に,「(中華民族は)民度の低い哀れむべき方々」とか,「韓国はゆすりたかりの名人」という竹田氏の言動自体・評価自体は,上述のとおり客観的には不穏当だし,中国(民族)・韓国(民族)の方々にとって,不快感・嫌悪感を抱かせるにことはもとより理解できる。竹田氏のツイッターであれ,竹田氏の著書であれ,そのような言論・論評を一旦してしまうと,広く読まれ,社会に拡散され,「竹田氏の」言動として社会的に流布することは当然であろう。しかしだからといって,そのような一回性の言論について,竹田氏=「(差別やいじめの)常習者」というラベリングを行うことは「公正な評価」であろうか。「ああ,またやってくれたな。竹田くんは。」と個々人が評価すれば足りることで,竹田氏=「(差別やいじめの)常習者」と一方的に決めつけるのはいかがなものであろうか。「(中華民族は)民度の低い哀れむべき方々」とか,「韓国はゆすりたかりの名人」という竹田氏の言動活動に対する批判・攻撃ではなく,やはりここでも,竹田氏個人に対する『人格攻撃』をしかけているものと評すべきではないか。そして,このような『人格攻撃』=『個人攻撃』について,裁判所=裁判官自体が,「判決」の形でこれを「公正な評価」だと「積極的な」公的評価を下し,公表することは,裁判所=裁判官自体が特定個人の『人格攻撃』に加担していることにならないか。

竹田氏の請求を棄却すること自体は,裁判所の裁量的判断だろう。
しかし,その棄却理由は,「山崎氏の言論が」「公正な論評だから」というように,(批判者の言論活動に向けて)積極的な評価をくだすのではなく,「山崎氏の言論が」「違法・不当とまでは断定できないから」という程度の消極的な説示にとどめるべきではなかったか。裁判所の「公的」判断としては。