北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

大谷恭子弁護士のこと

弁護士が経営する「弁護士ドットコム株式会社」という会社がある。
WADASUとしては,同社がネット上で公開している弁護士のランキングには,
常々疑問をもっているので,もちろん,会員ではないのだが,
同社からは,勧誘目的で,時折,同社発刊の月刊「弁護士ドットコム」という冊子が,
無償で送られてくる。

それとて,殆ど読まずに「ゴミ箱行き」が通常であるが,
先般,一方的に送られてきた「弁護士ドットコム」先月号の表紙には,
女性弁護士の肖像写真が出ている。

    名前を拝見すると,「大谷恭子氏」と書かれていた。
    「この方が,アノ大谷弁護士かいな。」という思いから,
    ついつい,「フロントランナーの肖像」という連載物としての,
    彼女のインタビュー記事をザクッと読んだ。
    そう,彼女は,「知る人ぞ知る」「永山の刑事弁護人」なのだ。

   犯行当時19歳の永山則夫が,計4名の被害者を,
   ピストルで連続的に射殺して,死刑となった「永山事件」のことを
   知らない弁護士はいない。

   第一審の死刑判決を覆し,
    第二審で無期懲役刑を宣告した東京高裁判決(船田三雄裁判長),
   いわゆる「船田判決」を破棄した,最高裁判決(大橋進裁判長)が

 

示した,いわゆる「永山基準」が,その後,現在に至るも,我が国において,
死刑判決と無期懲役を画する基準とされているからだ。

弁護士のインタビュー記事は,実体験にもとづくもので,
未公開の裏話や,こぼれ話が語られるので興味深い。

「どうせ死刑になる」といった荒んだ精神の永山被告人から,
「お前らエリート階級がオレたちの犯罪を生むんだ。」という「思想」から,
「土下座しろっていわれてもね(笑)。
 あなたの足もふんでないしできないって返したの。」
と軽妙に語る大谷弁護士。

そんな永山被告人の荒んだ,投げやりな精神を緩和するのに一役かった,
「獄中結婚した妻」(沖縄出身でアメリカに永住権をもつ日本人女性)について,
大谷弁護士は,

「彼女は昔だったら沖縄の巫女さんよ,きっと。
 シャーマン的な感覚がある人だと思う。
 見えないものが見えている人だなって感じた。
 この人はきっと何かを感じて,そして導かれるように彼に出会って,
 それを信じて動いている。
 体当たりだったし,言葉に不思議な力があった。…」
と語る。

インタビュアーの方も,きちんと予備的取材をしていた。
逆転・無期懲役の「船田判決」がでたときの,
当時の新聞記事を次のとおり紹介している。

「(永山被告人の妻の)顔は紅潮し,こみ上げるものを押さえるように
 何度も口びるをかみしめた。弁護人席では,大谷恭子弁護士が
 思わず両手で顔をおおい,涙を拭った」(「讀賣新聞」1981年8月22日)

 

おもわず,夏樹静子「裁判百年史ものがたり」(文藝春秋)の
「第十回 永山則夫 十九歳の罪」を読み返した。

「(最高裁判決後の差戻審で)弁護団はなんとか再び無期懲役判決を得るため,
 (昭和60年)12月,苦渋の選択で三回目の精神鑑定を申請した。
 補充意見として,あえて永山の誇大妄想,好訴妄想,思考障害,家族歴などを
 裁判所に提示し,精神疾患の疑い濃厚として,専門家の診断を求めた。
 永山は激怒して,百万円カンパした鈴木主任(弁護人)をはじめ,
 持ち出しで働き続けた五人の弁護人を解任,
 残る一人の大谷恭子弁護士も,
 『被告人の人格攻撃をした』として,
 昭和61年3月に解任した。
 それを知った直後,永山奈津子は手元に留めていた離婚届を役所に提出し,
 正式に協議離婚が成立した。獄中結婚から丸五年が経っていた。」

 

犯行当時19歳の永山被告人の死刑が確定したのが,平成2年5月8日。
そして,死刑執行は,死刑判決確定から7年後の平成9年8月1日,
享年48。「順番としては早すぎる処刑」で,
同年5月,神戸で起きた14歳の少年による「酒鬼薔薇事件」の影響も
憶測された,という。

 

さて,WADASUが,修習同期のH弁護士に誘われて,
国選弁護(第1審)を担当した木曽川・長良川連続リンチ殺人事件の,
犯行当時19歳だったMKは,平成13年7月9日,
名古屋地裁(石山容示裁判長)で受けた死刑判決が,その後,確定し,
現在は,東京拘置所にて収監されている模様。

昭和50年3月生のMKは,計算上,現在42歳。
未だ,「永山」の死刑執行時の年齢(48歳)には達していないが,
 近時は,再審請求中でも,死刑は,いつ執行されるやもしれぬ。

 

WADASUは,MKの国選弁護を受任していた当時,
「永山基準」からすれば,
「MKの犯行(結果として4名を殺傷)・犯情は,無期懲役が相当である。」
と本気で思っていた。

次のブログでは,MKのことについて,少し書いてみたい。