北口雅章法律事務所

弁護士のブログBlog

イスラエル軍のガザ地区侵攻は「現代文明の宿命」か

今朝の新聞各社は、ハマスの奇襲攻撃に対する、イスラエルの報復としての、ガザ地区への地上侵攻について、差し迫った緊迫状況を報じていた。ロシア=プーチン政権のウクライナ侵攻どころの騒ぎではない。

この「神々の戦い」をめぐる記事を読んで、マックス・ウェーバーの言葉を思い出し、読み返した。

曰く「かつて多くの神々は、その魔力を失って非人格的な力となりながら、しかもその墓から立ち現れて、われわれの生活への支配をもとめて再びその永遠の争いを始めている。ところが、現代の人々にとって、特に現代のヤンガー・ジェネレーションにとって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えることである。」

ウェーバーが、ここで「日常茶飯事」というは、次のようなキリスト教の歴史を背景に、「現在の宿命」として論じているところである。

曰く「この倫理的に節度のある生活態度に内在した偉大な合理主義は、あらゆる宗教的予言の共通の産物であるが、この合理主義は、かつては、『唯一不可欠の神』のためにこうした多神教をその王位から斥けたのであった。だが、外面的ならびに内面的生活の実際に直面するに及んで、それはキリスト教の歴史について誰もが知っているようなさまざまな妥協や緩和のやむをえないことを知るに至ったのである。しかるに今日では、このことはもはや宗教上の『日常茶飯事』になっている。」と(尾高邦雄訳「職業としての学問」岩波文庫56頁以下)。

読者には、ウェーバーが何を言っているのか、わかりにくいかもしれない。

だが、彼がここで問題にしていることは、至極、常識的なことである。私の理解では、ここでいう『唯一不可欠の神』というは、キリスト教徒が崇める神であろうが、キリスト教の教義にある倫理・道徳を貫くことは、今日では、不可能である。例えば、「悪しき者に手向かうな」、「人もし汝(なんじ)の右の頬を打てば、左をも向けよ」という道徳・教義は、明らかに「卑屈の道徳」であって、このような道徳観念を採用している西欧国家は存在しない(上記引用の中の「さまざまな妥協や緩和」の一例であろう。)。むしろ、逆に、「悪しき者には抵抗せよ、しからずんば、汝(なんじ)は、その悪事の共犯者たるべし」という教義・道徳観念の方が、今日の趨勢であろう(このような道徳観念のもとに、ロシアのウクライナ侵攻に対抗して、西欧諸国がウクライナ支援を行っている根拠があろう)。

ウェーバーによれば、ここで、人々(諸国)は、いずれの倫理・道徳を採用するかを選択しなければならない。この場合、「各人がその拠りどころとする究極の立場の如何に応じて、一方は、悪魔となり、他方は、となる。そして、各人は、そのいずれかが彼にとってのであり、そのいれかが彼にとっての悪魔であるかを決しなければならない。」と。ここで、ウェーバーのいう「神」と「悪魔」の対立概念は、扇情的な比喩であり、「神」=「正義」、「悪魔」=「不義」に置き換えることが可能であろう。

ハマスの奇襲攻撃が国際法を無視した「悪魔」的行為であることは疑う余地がない。

だからといって、イスラエル軍の報復・反撃が、正当化されるのか。イスラエル軍が、たとえガザ北部からの居住民の撤退を呼びかけたとしても、全ての住民にアナウンスされているとは限らないし、全ての住民が「移動」できるわけがない。だが、イスラエルの道徳観念と、ハマス・イスラム教徒の道徳観念は全く異なる。

道徳観念=価値観(価値秩序)の対立は、「神々の戦い」である。

純粋な経験から出発するなら、人は多神論に到達するであろう」(James Mill)

真・善・美&神という価値概念は、各々絶対か?といえば、…

ウェーバー曰く

あるものは美しくなくとも神聖でありうるだけでなく、むしろそれは美しくないが故に、また、美しくない限りにおいて、神聖でありうるのである。」(旧約聖書・イザヤ書第53章)

あるものは善ではないが美しくありうるというだけでなく、むしろそれが善でないというその点で美しくありうる」(ニーチェ、ボードレール)、

あるものは美しくもなく、神聖でもなく、また善でもないかわりに、真ではありうるということ、否、それが真でありうるのはむしろそれが美しくも、神聖でも、また善でもないからこそであるということ――これは今日むしろ常識に属する」。

だそうだ。

以上、今朝の報道を機にウェーバーの「職業としての学問」を想い起こしたように書いたが、実際のところは、宮坂宥勝先生の「密教世界の構造」(ちくま学芸文庫)を読んでいたら、62頁に、ウェーバーの上掲・講義録の言葉\「かつて多くの神々は、その魔力を失って非人格的な力となりながら、しかもその墓から立ち現れて、われわれの生活への支配をもとめて再びその永遠の争いを始めている。ところが、現代の人々にとって、特に現代のヤンガー・ジェネレーションにとって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えることである。…」が出てきたので、「職業としての学問」を一部読み返した次第。