北口雅章法律事務所

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「薬師寺」管主(太胤和尚)は 「不邪淫」 の戒を犯したか?

薬師寺には,「青」が似合う。

 薬師寺(奈良市)は,2015年(平成27年)12月7日,来年8月で山田法胤(ほういん)管主(75)が退任し、新管主に村上太胤(たいいん)副住職(68)が内定したと発表した。

 

 山田管主は,平成21年8月に就任し、東塔(国宝)の解体修理などに取り組んできたが,記者会見で,「東塔修理も目途がつき、75歳になった。ここで後進のために道を開きたい。」などと感慨深く語った。わかりやすくユーモアに満ちた山田管主の法話は人気で、年間200回程度にのぼるといい、親しみやすい人柄でも知られていたという(以上につき,2015年12月8日 産経新聞奈良支局)。

この名管主の写真後方に鎮座ましますのは,本尊の薬師如来座像と両脇侍像(いずれも国宝)。薬師寺には,この他にも観音菩薩立像,僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命座像といった国宝級の神仏像を擁する。「僧形八幡神」像は,その名のとおり「神仏習合」の象徴であり,この「神仏習合」こそ,外来の仏教と土着の神道との融合という受容形態をとった,わが国独特の精神文化を特徴づけるものである。


以上は,田中等[画・文]「日本の国宝画像」からの引用

 

さて,本題。アノ時(前掲・写真)から約2年半。

 前掲・写真上で,前任の名管主の「右陪席」におわすお方(管主・太胤和尚)が,先日」(5月17日)発売「週刊新潮」の迫撃砲(はくげきほう)の直撃を受けた。

 

 著名な世界遺産の「古刹(こさつ)」の管主に就任することは名誉なことであろうが,名管主の「後釜(あとがま)」となると,比較されるので,ただでさえ,つらい。まして,「煩悩」がわざわいしての不祥事が「露見」してしまい,「週刊新潮」ごとき週刊誌記者から「仏教における『五戒』。当然ご存知だと思うんですが,今,そらんじていただけますか。」,「不邪淫戒とは?」などと屈辱的な詰問を受けるのは,もっとつらい。

 記者からの「不邪淫戒とは?」という問いかけに対し,和尚は,潔く,「邪(よこしま)な『そういった』関係ということですね。」と認めてしまっている。ここで,『そういった』関係とは,「ご自身が結婚されていて,女性と男女の関係を結んだら,不倫と言いますね。」という記者からの誘導尋問に引っ掛かって,「ああ,そうか私が(結婚している)ね。それを不倫というので。『個人的なお付き合いで来ていた』と思ってたもんですから,愛人だとか不倫だとかそういう風に一度も思ったことはないんですけど。認識が甘かったなと。」との発言を承けてのことなので,このような男女の関係を「清浄」なものと反論せず,自ら「邪淫」と認めてしまっている。

 太胤和尚は,この後まもなく,潔く「薬師寺」管主を辞任しており,身の処し方といい,上記受け答えとして,文句のつけようがない対応をなされている。

 「銀座の牝狐」に裏切られ,週刊誌の餌食となった以上,無駄な抵抗をしないのが得策ではあるが,仏教哲学を紐解いたこともない三流記者に,「妻帯する管主が40代である美貌のホステスを口説き,邪(よこしま)で淫らな行為に耽っていたというのだ。仏の戒めを破ってまで…」(週刊新潮)などと殊更に屈辱的なことを書かれてしまうと「弱者の味方」弁護士としては,黙ってはおれない。

 そこで,若干,太胤和尚の「弁護」をしておきたい。

 確かに,法律論的には,太胤和尚の所為は,和尚の妻との関係では,不法行為(不貞)を構成し,太胤和尚のとかれる「法相宗」の教理との関係でも,おそらくは社会的非難をあびるであろう(但し,「銀座の裏切り者(ホステス)」との関係では,何らも問題がない),
 しかしながら,真言密教(空海)の立場からいわせてもらうと,太胤和尚の所為は「不邪淫」の戒を犯したとまでは必ずしもいえないし,「不邪淫」(仏教でいう五戒の一つ)を持ち出すのは不相当である。したがって,俗塵にまみれた一介の週刊誌記者が,「仏の戒めを破ってまで」して,「邪(よこしま)で淫らな行為に耽っていた」と断定するのは言い過ぎであろう。
 その理由は次のとおりである。

⑴ 前提として,空海の講義録( 「理趣経開題(生死之河)」 )によれば,(古代インドで龍猛菩薩)が誦(とな)えたとされる)理趣経こそが如来(仏の最高位)の秘密の根本教理(「如来密蔵の根本」)であるとされ,三世(過去・未来・現在)にわたるすべての如来は,すべて理趣経の教えの門によって成仏した(「三世の一切如来,みなこの門に従(よ)りて成仏す」)とされているとおり,理趣経は,真言密教の根本経典である(その趣旨は,空海の『十住心論・巻第九』で説かれている)。

⑵ 而して,理趣経においては,男女の情交(性交渉)は,「菩薩の境地」として肯定されている。具体的には,理趣経には,次のように書かれている。
 男女の性的快楽(「妙適(surata)」 )は,清らかなもの( 「清浄」 )であり,菩薩の境地である( 「是菩薩位」 )。また,矢のごとく異性に向かってはなたれる情欲( 「慾箭」 ),男女の抱擁( 「触」 ),相思相愛( 「愛縛」 ),男女の情交( 「一切自在主」 )なども,いずれも清らかなもの( 「清浄」 )であり,菩薩の境地である( 「是菩薩位」 ),と。
 もちろん,理趣経の教理を,上記の如く「性的」に理解することについては,男女問題にストイック(禁欲的)な学僧からの異論もあるが,仏教哲学界の通説的見解は,上記のとおりである(宮坂宥勝先生・訳注[名古屋大学名誉教授]「密教経典」[講談社学術文庫]117頁以下,松永有慶先生[高野山大学名誉教授]「理趣経」[中公文庫]132頁以下等参照)。
 ただし,ここで注意が必要なのは,理趣経は,般若理趣経と呼称されるように,「般若心経」と同じく,般若経の一種だということである。つまり,空海は,男女間の性的情欲を「空」とみる般若の智慧を前提としており,「度を過ぎた情欲」を戒めているということである。具体的には,獣欲(「雄牛」のごとき「淫」)ではダメで,自己の本性が空であることを観ずることがなければならないとされている(『十住心論・第一』)。
 以上要するに,真言密教では,「男女の情交」は,度が過ぎたものではなく,「邪(よこしま)」なものでなければ,原則的には,肯定的に捉えられているのである。

⑶ では,真言密教でいう「邪(よこしま)」な性交渉とは,どのようなものか。
 空海の『十住心論』「五戒」が登場するのは,巻第二である。
 具体的に,どのようなことが書かれているかというと,「五戒」とは,「仁・義・礼・智・信」を指し,このうち不邪淫に相当するのは「義」であって,「(相手を)害(そこ)なうのを防いで男女の道を乱すことをしない」(「害を防ぎて媱(えう)せざる」)ことをいうと書かれている。これだけでは,何のことやらわからない。そこで,さらに読み進むと,空海は,『正法念処経』という経典を引いて,「不邪行」とは,「異性に対する邪な行為を離れた人は,善人に称賛される。所有する妻妾を奪われることもない。たとえ,衰え弱ることがあっても,妻妾に嫌われることはない。(そして)もろもろの善きことを摂(おさ)める。このようなものは,さとり[涅槃]の器(うつわ)である。」と説いている(弘法大師空海全集・第1巻「秘密曼荼羅十住心論」153頁)。なんのことはない。空海の時代は,一夫一婦制ではなく,「妾」も許されていたのである。もっとも,十住心論には,「四戒を犯(ぼん)する」場合の例として,「飲酒に由る故に他の妻を淫し」(飲酒することによって他人の妻と情交し)との表現も出てくるので,夫のいる女性と情交を結ぶことは「邪淫」になる。

⑷ ところが,本件の場合,「現代社会の倫理」をひとまず捨象して,純粋「真言密教の理趣経」の文言解釈からすれば,お相手の「銀座のホステス」は,紐付きの男はいろいろいたであろうが,いわゆる「プロの女」であって(当然,守秘義務があったはずである。),かつ,「良識的な対応が期待できるはずの(年増の)」独身女性であり,「夫の権利」を害することはなかったと考えられる。

⑸ よって,太胤和尚は,「不邪淫」の戒を犯したとまでは断定できまい。

「十住心論講義」第1講おわり。

 

― 萌絵ちゃんへ
WADASUのことを「エロブログの弁護士」と呼ばないでね。

 

*(7月1日追記)お読みいただき,ありがとう。