弁護士のブログBlog
「揖斐・名地裁所長に聞く」と,
裁判員制度によって,
「裁判官の視野(が)広がる」らしい。
― 「言葉尻を捉えている」と言われるかもしれないが ―
だったら,
揖斐・名地裁所長の上記指摘の論理的帰結として,
裁判員制度が始まる『前の』「刑事裁判官の視野」は,
「『視野が広がる』『前の』状態」だった,
つまり
「刑事裁判官の視野」が「狭かった」ということか?
揖斐・名地裁所長曰く
「なじみのない見方や意見が裁判員から出されたことで,
視野が広がったという裁判官の感想も多いと聞く。
市民感覚を受け入れたことによる積極的な変化と言える」
だと?
そもそも,
「なじみのない見方や意見」が「市民感覚」といえるのか??
裁判員制度をもって,
「市民感覚を受け入れた」ということは,
裁判員裁判を受け入れる前は,
「市民感覚を受け入れていなかった」ということか??
裁判官は,裁判員から「市民感覚」を教えてもらわないと,
「市民感覚」を身に付けられないのか??!
「裁判員」(法律の素人)から「市民感覚」など教えられなくても,
日々研鑽を重ねて,「市民感覚」を身に付けるのが,
裁判官の職責ではないのか??!
そもそも「市民感覚 」が身についていないような人物は,
「裁判官になるべきではない!!」というべきではないのか??!
今の司法養成制度(法科大学院中心主義)では,「市民感覚」を身に付けられない,ということか?
「裁判員経験者へのアンケートでは,・・・
経験後は,96%以上が『よい経験だった』と回答している」
といわれるが,
『よい経験だった』と思わなくては,やってられないということではないのか?
「やっぱり,辞めとけばよかった,という失敗を学んだこと」こそが,『よい経験だった』のではないか?
裁判員参加が『時間の浪費』だと思う方は,はじめから裁判員の受任を拒否するのではないか?
「(刑事)裁判に対する国民の理解と信頼の向上に非常に役立っている」
などとは,到底思われない。
そもそも裁判員を経験できる国民は,国民全体の極々一部である。