弁護士のブログBlog
先日,裁判の合間に,弁護士会の資料室に立ち寄ると,
大隅乙郎著「日本の裁判官論」が書棚に置かれてあった。
手にとって,偶々開けたページの標題が,
「裁判官の矜恃はどこに」
だった。
曰く「…東日本大震災のトラウマ,…アベノミクスが主導する日本経済…,『デジタル革命』,…グローバル化したことによる不安定な地政学的リスクに加えて,
国内は少子高齢化社会の老後不安,
そして,これらの出口(解決策)の見えないための複合的な不安が,
日本人に閉塞感と孤立感を与え,社会階層が両極化して分断され,
人々を自己中心的な内向き指向にされている。」
と,現代日本の精神文化の荒廃ぶりを的確に指摘された上で,
「このため,自分の身過ぎ世過ぎが安泰ならば,定年まで波風立てずに無事に過ごせればよしとし,批判されることをおそれ,あえて出過ぎたことをしない思考」が蔓延し,
「…このため…裁判官にも,他人に同調して逆らわず,委縮し,自主規制し,同質化し,異質性・独自性を失った者が増えているように思われる。
…最近の下級審裁判所の判決を見ると,
①事件記録を精査していない,
②文献(学説)や判例を調査・研究しない,
③結論について熟慮した跡が見えない,
④事件への精力的・献身的取組が感じられない,
といった現状が見られるのである。怠けている訳ではないと思うが,
仕事に対する覇気がなく,責任感,緊張感を失い,精神が弛緩している。」
とまで,裁判官を扱き下ろしている。
著者のプロフィールをみると,早稲田大学法学部在学中に司法試験合格。
約10年の裁判官としてのキャリアを経て,弁護士登録(現在83歳の大先達)。
相当「優秀で」「立派な」先生に違いない,と確信して,
買って読むことにした。
私は,実は,今日,医療過誤訴訟の控訴審で敗訴判決を受けた。
裁判官の顔色,審理態度をみただけで,十分に予想されていたことだ。
だからこそ,以下のとおり思うのだ,という批判はあるものと思われるが,
それにしても,
著者・大隅先生の,「歯に衣着せぬ」裁判官批判は,
「旧来型・法廷弁護士」の「昨今の実感」を代弁してくれており,
多くの弁護士の共感・共鳴を得ること請け合いだ。
(カッコ内は,私の感想)
以下,大隅語録。
「在野にいる弁護士にはとても理解できないことかもしれないが,極端に言えば,裁判官は出世にしか関心がないのだ。」(・・・理解できなくもないが,我が同期の裁判官らはそうでもない,と思う。)
「高裁が誤判(悪判決,ダメ判決,不当判決,違法判決,誤判決)をしたら,もはや他に救済の道はなく,万事休することになる。これが,日本の民事裁判の現状である。」
「私は,高裁判決を全面的に信頼していない。むしろ,最高裁が(三審制の最後の砦であるにも拘わらず),洪水津波のように押し寄せて来る大量の事件処理に追われて,首が回らず,十分な審理ができないのをよいことに,高裁の審理,判決(決定)が杜撰になっている傾向が顕著である。」(・・・イイネ!)
「東京高等裁判所平成25年(ネ)第6291号事件平成26年4月24日判決(裁判長裁判官M,裁判官N,裁判官N ※註:原著では実名[60頁])は,次のように判示した。
『・・・・(判決引用:本ブログでは省略)・・・・』
この判示により,原判決を取消し,本件建物の時効取得の成立を認めた。
正直言って,何を言っているのか,論理が支離滅裂で理解し難い。・・・」(62頁)
「…以上のように,盗人に長期取得時効を認めた先例は,戦前の大審院判例を含めて,今日まで寡聞にして皆無である。」
(イヤー,驚きました。東京高裁で,このレベルですか。
逆にいわせもらえば,今どきは,こんなレベルの低い,誤判ができる裁判官でも,東京高裁判事になれるのですね。最高裁昭和58年3月24日判決と明らかに相反していますよね。これで,上告受理が認められないということは,最高裁調査官のレベルさえもが下がっているとしか思えない。私も,同種の経験をしょっちゅうしているので,この点に関しては,特に驚かないが。)
その他,
「誤判は,…それを改善すべく,全国の弁護士が自分が受けた誤判にコメントや注釈を付けて,これを毎月,もしくは隔月で一冊の本にして公表するか,『自由と正義』(日弁連の月刊誌)に連載して,巷間の批判に晒すべきだ。」(・・・諸手を挙げて賛成!!
「上告(上告受理申立)をしても,殆ど全く頼りにならない機能不全の最高裁が残されているだけで,原告を救済する道は完全かつ永遠に途絶され,一体この不満をどこに持って行けばよいのか,世の中の不条理と無情を感ずる。」(66頁)
「日本の民事裁判官の共通した体質は,判断者であるはずの裁判官が,その職責たる判断を避けたがることである。…裁判官は何事につけ,判断することに消極的,億劫,優柔不断である。」(そうでもないが,蓋をあけてみると,顎がはずれることがままある。)
「私は,極端にいえば,裁判官が実体的真実発見に邁進する姿を見たためしがなく,いかに効率よく事件処理をするかに腐心している姿しか見たことがない。」(まだまだ,地方の狭い社会に住む,田舎弁護士の私は,ここまではよーいわん。)
「裁判所という世界は,弱きを挫き強きを助けた方が『毅然とした裁判官』としてかえって重用され,高く評価される風潮がある。」(確かに・・・)
「日本の裁判官は,証拠の優劣や立証責任の分配で決まったものが真実であると勘違いしており,勘違いしていなければ,それが正義の実現であると信じており,本当の意味での真実発見に殆ど意欲も関心も無い。」(先日,私が受けた名古屋高裁判決を見て,思ったことだがな。)
最後に,大隅先生の御著の「帯」には,
「民事裁判の
活性化の
起爆剤
ここにあり!!」
と書かれているが。ここは,私からみて疑問符がつく。
「起爆剤」と評された対象,すなわち,
大隅先生の提案は,日本版ディスカバリー(証拠開示制度)と民事陪審制度の導入に加え,法曹一元制度の実現(キャリア裁判官=官僚裁判官制度の廃止)であるが,「百年河清」を待っても実現することはあるまい。