北口雅章法律事務所

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「日本の社会学」の効用?

先日,畏友のN君が贈ってくれた,社会学の論文集(『変貌する豊田』)の「まえがき」で,N君が,次のごとく随分と辛辣なことを書いていた。

 「日本社会の停滞的状況が指摘されて久しいが,日本の社会学の停滞状況も相当なものである。…,カビの生えた理論に無意識に依拠して現実を解釈してしまう傾向が強く,・・・・,若い時に優秀だった研究者たちが30年,40年たってもおなじ持ち歌しか歌っていないのをみると,暗澹たる気持ちになると。

 思わずN君らしいと思え,笑ってしまったので,礼状にこの一文を引用した上で,――約40年前の学生時代を思い出し――,「その若い時に優秀だった研究者って,(当時,N君のゼミ仲間だった)O君やY君のことかい?と礼状に書いたら,どうやら図星ではなかったようで,もっと上の世代の「高齢化したエライ研究者」のことを指しているとのことであった。

 そして,先日,今度は,N君のお師匠であるS名誉教授とその弟子達との「共同研究」の成果としての論文集(N君曰く「ゼミの同窓会のような本」)が出た,とのことで,贈ってくれたので,どれどれと早速,まず冒頭に載せられていた総括的なS名誉教授の論文2題を読み,次で,論文集の最後に出ていたN君の論文を読んだ。

 その上で,S名誉教授の次に掲載されていた赤堀三郎氏東京女子大学現代教養学部教授の論文が,「不寛容社会を題材」として扱っており,面白そうだったので,読み始めたところ,いきなり吹き出してしまった。

赤堀教授は,冒頭,
S名誉教授の論文を引用して,「日本の社会学はどこまで時代の課題と取り組み,新時代にふさわしい解決策を出しえてきているだろうか?」と問題提起した上で,
次のように述べておられる。

●「『日本の社会学』に限ったことではないが,ここで用いられている『日本』という言葉は,ある主体――日本語を操り,日本語で考え,論文を書くような主体――が自らを区切り,限定するという機能をもつ道具である。『日本の社会学』とされているものは,そのような主体の思い込みの産物である。」
●「このことを念頭に置きながらも,あえていえば,まずは『日本の社会学』にとって重要なのは自分が『日本の社会学』であるという思い込みを脱すること,自らが自らに設定した限界を脱すること,である。・・・」と。

どうやら,社会学者として,まずは先達の論をコケにするところから始めるのが,Sゼミの伝統・礼儀らしい。

赤堀教授の論文が対象とする,「不寛容社会」の問題は,「木村花さん事件」との絡みもあってトピックな社会問題ではあるが,社会学者の切り口は,一般的なマスメディアの視点(ファーストオーダーの観察)とは異質な視点(セカンドオーダーの観察)だ。
ここで扱われる「不寛容社会」として,2016年6月,NHKの特別番組「わたしたちのこれから~#不寛容社会」(『NHKスペシャル』2016.6.11)で,「週刊誌の報道をきっかけに人気タレントに集中する批判。インターネットやSNSにあふれるパッシングや炎上。相いれない主張がエスカレートし,対立構造が先鋭化する社会に,息苦しさを感じるという声が多く聞かれるようになった。専門家は,このままでは日本社会全体が萎縮してしまうと警鐘を鳴らす,・・・」といった内容が紹介され,

「不寛容」とともに登場する言葉が,
「息苦しさ」,「インターネット」,「SNS」,「批判」,「パッシング」,「炎上」であり,
「エスカレート」,「先鋭化」という急激な変化(暴走)であったり,
「感情的」「攻撃的」なイメージが密接にかかわっていると指摘される。

ここまでが議論の素材であり,前提である。

その上で,赤堀教授は,次のとおり指摘される。

社会学の知見を踏まえれば,社会の中の不寛容さの増大は,文明化に対立するものではなくむしろ文明化の帰結として理解されるべきものである」,

(メディアが行っていることは)『不寛容な言説は逸脱だよね』,『こういう逸脱は解消されないといけないよね』という,より情報価値の高いメッセージを発信し続けることだ。その結果は,逸脱の解消ではなく増幅」であって,ここに「不寛容社会のパラドックス」がある等々。

このようなパラドックスのメカニズムや如何に?
このようなパラドックスに「処方箋」はあるのか?

興味のある方は,下掲・論文集を購入して,お読みください。

赤堀三郎「社会学にとっての時代の課題と解決策
―不寛容社会を題材として」
庄司興吉編著『21世紀 社会変動の社会学へ
  主権者が社会をとらえるために』新曜社