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円空と定雄和尚(龍泉寺住職)との間に接点ありや?

 先のブログで紹介した新家猷佑著「元禄時代の世情譚」(中日新聞社)によれば,「補遺」末文で,「龍泉寺には,五百体を超える円空仏が所蔵される。定雄和尚は,遊行僧・円空(寛永9-元禄8年)と同時代を生きており,接点があった可能性は大きい。」と書かれている。が,残念なことに,両者の接触の可能性を示唆する事情としては,「同時代人」であったことしか言及がなく,もう少し具体的な考察が欲しいところだ。

 詳細は,定雄(じょうゆう)和尚(龍泉寺住職)の伝承に関して,上記著作が依拠したものとみられる智鋒権僧正(天台宗・密蔵院36代住職)が書き遺した「尾州竜泉寺定雄和尚伝」(以下「和尚伝」という。)の原典にあたって,考察する必要があろうが,調べる気力がないので,上記著作で言及されている範囲で,上記両名が接触した可能性を考察すると次のとおりとなる。

 円空が龍泉寺(名古屋市守山区;宝蔵院の末寺)に逗留した時期は,同寺に遺された円空作・馬頭観音像の背銘に延宝4年(1676年)と墨書されていることから,この時期,定雄和尚が,既に龍泉寺の住職に就任していたか否かが問題の所在である。

 和尚伝によれば,定雄和尚は,その師匠である霊胤僧正(密蔵院34代住職)から,天和元年(延宝9年改元)頃,葉上流潅頂(法儀)を復活させるべく,圓教寺(播州・兵庫県)に派遣される関係で,龍泉寺から一時期離隔するが,円空が龍泉寺を訪れたのは,これよりも前の時期であるから関係ない。

 また,和尚伝によれば,定雄和尚が死去したのは,元禄15年(1702年)・享年72歳とのことであるから,延宝4年(1676年)の時点での定雄和尚の年齢は,計算上46歳であったことになる。
 一方,定雄和尚は,和尚伝によれば,早い年齢で出家し,比叡山・法乗教院での修行を経て,尾州賢林寺(愛知県小牧市)での住職を務め,次いで龍泉寺に移り,伽藍の補修を行ったたとある。40歳台という体力・知力が最も充実する時期,伽藍の補修を手掛けたと考えられ,この伽藍補修の規模に関しては,「五百体を超える円空仏」の保管場所を確保することも,当然,念頭にあったものと考えられる。置くスペースのないところに,「五百体を超える円空仏」は収まらないからである。ちなみに,定雄和尚が,霊胤僧正(密蔵院34代住職)の行状(賭博,男色等)に抗議して(?),龍泉寺の住職を辞して隠居したのは,元禄元年(1688年),当時58歳のときである。

 このように考えると,定雄和尚こそが,竜泉寺伽藍補修を機に,円空の仏像造顕の場を提供したものと考えられ,両者は,千光寺住職の俊乗や,荒子観音寺住職の円盛法印などと同様,親交があったものと考えられる。