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円空が詠んだ「今朝(けさ)の袈裟(けさ)山」

日本全国に数多くの木造の仏像を遺した円空は,袈裟山で詠んだ和歌百首を自選して,千光寺(岐阜県高山市)に奉納している。これが円空作『袈裟山百首歌』である。「袈裟山」というのは,地理的な名称ではなく,千光寺の山号,つまり,千光寺の正式名称は,袈裟山千光寺であるが,千光寺周辺を「袈裟山」あるいは「袈裟の野」(8,23等)と呼称していたものと思われる。

円空の和歌は,誤字・脱字があり,「てにをは」も誤っていることもあって(梅原猛「歓喜する円空」319頁),難解なものが多い。したがって,当然ながら,解釈・理解が分かれる。『袈裟山百首歌』については,若森康平さんという方が,円空学会編『円空研究―33』で,現代語訳(以下「若森訳」)をのせてくださっているので,大変参考になるが,いろいろ読み込んでいくと,やはり賛同できない部分も少なくない。
 例えば,『袈裟山百首歌』の中では,「けさの山」という言葉が頻出するが,その殆どは,①場所的・空間的な意味での「袈裟(けさ)」と,②時間的な意味での「今朝(けさ)」とが掛詞になっていることは容易に理解できる。このためか,若森訳では,「けさのやま」という言葉が出てこれば,自動的に,(場所的には袈裟山であることを自明の前提として)「今朝の山」と訳されている嫌いがあるが,以下に述べるとおり,必ずしも,掛詞になっていない歌もあるように思われる。

 若森康平氏の『袈裟山百首歌』の評価は,「古今和歌集を参考にして作られたもの」で,「短歌の創造性は乏しく感じました」と手厳しいが,私自身は,古今和歌集という古典を踏まえつつ(あるいは,もじりつつ),「若山牧水」調の叙情詩(恋歌を含む)・叙景詩に満ちており,味わい深いものがあると思う。

このブログでも,佳作と思われる歌のいくつかを紹介してみたい。
なお,[大意]は,私流の現代語訳を試みたものです。

まず,「けさ」の語が,「今朝」と「袈裟」の掛詞と理解して矛盾のない歌として,次のような叙景詩がある。

けさの山 花の鏡となる水を 
 ちりかかるをや 曇というらん(6)

[大意]昨日までの袈裟山は,水辺の水面が鏡のように満開の桜を映しだしていましたが,今朝は,花びらが水面を覆うかのように散りかかっています。これを「曇(くもり)」というのでしょう。

 

けさの野に おく白露は 玉なれや
 つらぬきかかる くものいとすぢ(23)

[注釈]若森訳では,「玉」を「仏」の意に解釈されてます。これには,なるほど!と感心しました。
[大意]今朝,袈裟山の野辺に露がかかりました。この露は,仏でしょうか。
蜘蛛の糸一筋に貫かれて,玉のように光っています。

 

白雪の 降てつもれる けさのやま
 すむ人さえも 思ひきぬらん(27)

[大意]今朝,起床して外を見ると,袈裟山のあたり一面が,真っ白な雪で覆われています。ここの住人(私)も,予想しておりませんでした。

以上の三つの歌は,いずれも叙景詩的なビジュアルな世界を歌ったものなので,掛詞とみて矛盾がないが,次に紹介する抽象的な叙情詩となると,「今朝」という時間的要素を読み込む必然性に乏しく,場所的・空間的な意味の「袈裟山」を指しているものと思われます。

 

けさのやま 山のあなたの 宿もかな
 かかるうき世の かくれがにせん(35)

[注釈]「宿もかな」の「もかな」は,「もがもな」(実現の可能性が少ない事柄についての願望を表す古語[三省堂・古語辞典])がなまった円空独自の用語だと思われる。
[大意]袈裟山の向こうに宿があったらいいなあ。この憂き世の隠れ家にしたいものだ。

 

春たてば 消る氷の けさの山
 かかる心に 我にとけなん(59)

[大意]春になれば,雪解け水が,袈裟山に染み込むように,
 愛しい君の心が,私に溶け込んできて欲しいものだ。
[注釈]僧侶らしからぬ(円空らしいところであるが),「古今和歌集調の」恋心を模擬的に歌ったものと思われる。

 

秋の月 けさのお山お(を) てらせるは
 かかる木の葉の かすをみよとか(71)

[大意]秋の月光が,袈裟山を照らしています。紅に染まって落葉した葉の数がいかに多いかを見よと言わんばかりに,映しだしているかのようです。
[注釈]秋の「月光」が射す時間帯を,「今朝」と理解するのは不合理だと思われます。

 

逆に,「袈裟山」の意はなく,「今朝」だけの意味で「けさ」という言葉を用いている和歌として,次のものがあります。

 

ちりぬれば けさはあくたと なる花お
 心にかけて まよふてふ哉(30)

[大意]散ってしまえば,今朝にはゴミ(芥)となる花を
 いとおしく思うのか,蝶が花の周りを舞っています。