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円空仏(Enku)入門「鳥屋市・不動堂旧蔵の尼僧像は,矜羯羅童子か?」

  鳥屋市(とやいち)の不動堂(岐阜県関市上之保村)には,かつて,妖艶な「尼僧像」(円空作)が祀られていた。この尼僧像が醸し出す枯淡と妖艶さに惚れ込んで,円空ファンとなった日本男子は少なくないと思われる。実は,私もその一人だ(高校以後,円空展を見る機会は殆どなかったが,時折,円空仏のイメージを思い起こすと,真っ先に思い浮かぶのは,いつもコノ「尼僧像」の顔立ちだった。)。だが,極めて遺憾ながら平成17年6月10日未明,この尼僧像を含む計21体の円空仏が盗難に遭い,今も戻らない。(『円空学会だより・第126号』)

 それは,さておき,この尼僧像については,不動堂近くの尼寺に住んでいた尼僧をモデルとしたもので,円空は,「杉野の洞窟」から峠を越してその尼寺に通っていたとの伝承もあるそうだが,円空学会の通説によれば,「尼僧像」ではなく「矜羯羅童子(こんがらどうじ)像」であると考えられている。

 矜羯羅童子説のなかでも,最も説得力ある根拠としては,円空作の不動三尊の中に「尼僧形の矜羯羅童子」が複数存在することがあげられる(長谷川公茂「艶な尼僧像は矜羯羅童子」『円空学会だより・第11号』)。ちなみに,梅原(猛)説も矜羯羅童子説であるが,「円空は,不動明王の脇侍に,怒れる制多迦童子と合掌する敬虔な童子である矜羯羅童子を配した。怒りと慈悲,力とやさしさ,この両面こそが円空仏の精神であろう。」(『歓喜する円空』352頁)との所説は,合理的ではあるが,実証的ではない。

 

 確かに,①埼玉の「武蔵国幸手領・小渕村不動院」にあったとされる不動三尊(昭和20年,戦災により焼失)と,②千光寺所蔵の不動三像をみていると,矜羯羅童子説を否定することは難しように思われる。

 しかしながら,丸山尚一氏著「円空風土記」に掲載される下掲・写真を一見すると,「尼僧像」は,制託迦童子(せいたかどうじ)像とは「対偶」の位置関係になく,必ずしも,不動明王の脇侍と考える必要はないのではないか,と考えたくもなる。この鳥屋市の「尼僧像」の像容は,どうみても「妖艶な尼僧」であって,その頭は「童子の天髪」ではなく,貴婦人の「被衣(かつぎ)」であるからだ。

 実際,岐阜県関市黒屋に残された円空作「不動明王」(個人蔵)の場合,その脇侍として,制多迦童子だけが残されており(下掲写真),それと同時に,矜羯羅童子が造顕された形跡はない。

 

・・・・などといった,希望観測的なことを考えていたところ,これと同旨の見解があることを発見した(池田勇次「尼僧夢幻考」『円空学会だより・75号』)。曰く,「(鳥屋市・不動堂旧蔵の)尼僧像を矜羯羅童子とするならば,女性形像であらわす,必然性を示さない限り三尊形式にこだわった拡大解釈といわざるを得ない。」と。

 しかしながら,それにもかかわらず,尼僧説には,致命的な弱点がある。円空が造顕する像は,例外なく,すべて「尊像」=礼拝・信仰対象だからだ。単なる修行僧(尼僧)が,礼拝対象となりうるであろうか?・・・と自問すると,「修行中の身でありながら」円空が尊像として造顕されている像があったことに気づく。善財童子像である。
 そして,善財童子といえば,なんといっても,妙喜堂所蔵(岐阜県小坂町長瀨)の善財童子像(下掲写真右)である。善財童子像の首角度と微笑のイメージが,鳥屋市の尼僧像の「斜め上向きの敬虔な微笑像」が醸し出すイメージと重なり合ってくるではないか。なれば,やはり,円空が「善財童子」を自身に擬(なぞら)えて彫ったように,鳥屋市の尼僧像は,「尼僧をモデルとした矜羯羅童子」と考えることこそが正解であって,「尼僧像か,矜羯羅童子か」というように二者択一的に考える必要はないように思われる(同旨・小島梯次著『円空仏入門』106頁「矜羯羅童子は近在の尼僧をモデルにし、制多迦童子は円空自身を彫ったのではないか、と想像を巡らせている。」)