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続「一宮市で円空仏新発見」? 

 円空学会発行の『円空学会だより』第199号に掲載された,新発見の円空仏(愛知県一宮市萩原町・小祠堂)(下掲写真について,先般(2021.3.31),このブログにて,「円空らしくない」と思われた疑問点を四つほどあげ,「模作ではないか?」と疑問を呈したところ,『円空学会だより』第200号(令和3年7月1日発行)にて,弊ブログの内容がそのまま取り上げられ,円空学会理事長の小島梯次先生から直々に,各疑問点に対し懇切なご講評をいただいた。


 小島先生の御説は,結論的には,本像は「典型的な円空仏(真作)」だというものであり,その理由とされるところは逐一ごもっともで,私の提起した疑問点は,あえなく一蹴されたかにみえる。
 しかしながら,本ブログでは,小島先生のご講評の要旨を紹介・解説させていただくとともに,なお残る疑問をもとに,若干の卑見を補足しておきたい。

 

第1の疑問点(W字状の下唇等)について
 私が本像(薬師如来)をみて,まず最初に違和感をもったところは,口元であった。すなわち,円空特有の古拙的微笑ではなく,上唇の真ん中あたりの肉厚が薄く,下唇が真ん中付近でやや持ち上がり,W字状になっているところであった。

 が,この点は,小島先生からの御指摘のとおり,正覚寺(愛知県丹羽郡)の十二神将に類似例(下掲写真)があったことを,ウッカリ失念していた。また,御指摘をもとに,林広院(郡上市)の薬師如来像の写真(下掲)をよく観察すると,下唇がW字状に見えなくもない。なお,上唇の真ん中の肉厚が薄い例として太田観音堂(愛知県東加茂郡旭町)の阿弥陀如来の例があげられる。
 したがって,「違和感」は違和感として残るものの,口元の特徴だけからは,本像が円空の真作であることを否定することはできないといわざるを得ない。

(正覚寺・十二神将「午」)

 

林広院・薬師如来像

 

太田観音堂・阿弥陀如来像

 

では,第2の疑問点(薬壺の線刻についてはどうか?

まず,予備知識から解説しておきたい。

円空作・薬師如来の典型例は,座像であれ立像であれ,立体感ある楕円状の「薬壺」が両腕に支えられ,安定感をもって彫刻されている。

(左は,如意輪寺[愛知県南知多町・内海]の薬師如来,右は,音楽寺[愛知県江南市]の薬師如来である。)

 

新発見の本像と同様,右手を「施無畏印」にし,左手掌で薬壺を支えるタイプの薬師如来像もある。その典型例が,板殿薬師堂(岐阜県高山市丹生川町)や,明福時(三重県三重郡菰野町)の薬師如来像だ。ここでも,たとえ側面は薄くても,「薬壺」とそれを支える「左手掌」は立体感をもって丁寧に彫られており,決して線刻などではない。

(左・中が,明福寺蔵[中は側面],右が板殿薬師堂蔵)

 

それに引き替え,新発見の本像はどうか。

やはり「線刻の薬壺」では,民衆の礼拝対象となるべき尊像としての「尊厳」を欠いているのではないだろうか。さらにいえば,本像では,左手掌・左腕が造顕されていないのであって,文字通り「片手落ち」感は否めない。卓越した木取りをなすことでも知られる円空が,薬師如来の中核をなす「薬壺」とそれを支え持つ「左手掌」を造顕できないとわかっていて,そのような木をわざわざ「薬師如来の」素材に選ぶであろうか。「薬壺」は,薬師如来の薬師如来たる由縁の本質的要素であって,これを「円空自らが」平板な線刻で表現したと理解することには,やはり疑問を抱かざるを得ない。

これに対し,小島先生は,次のように言われる。
「模刻しようとするならば,ほとんどの薬師如来のような薬壺を彫ると思う。そうでないことが逆に円空仏であることを証している。」と。そして,本像の薬壺は,「独創の薬壺」である,と。
 まさに「逆転の発想」であり,一種の「背理法」である。つまり,偽作と仮定すると,偽作者は,偽作と悟られないように,「真作に近づけようとする」はずである。「円空らしくない」理由として私が掲げた疑問点(つまり,露骨に「真作の特徴から外れていること」=「真作から遠ざかっていること」)が,小島説では,むしろ逆に,「円空の真作」を裏付ける根拠として援用されているのである。

 なるほど,確かに「贋物(にせもの)」を「本物」のように見せかけようとする偽作者は,一見して「円空らしくない」特徴を極力排除し,技巧的に円空の特徴に似せようとするであろう。このような偽作者の意図・習性からすれば,本像にみられる「薬壺の線刻」は,偽作者の当該意図・習性と背反するものであって,偽作などではありえない。むしろ真作であるといえよう。
 しかしながら,私は,必ずしもそうは思わない。すなわち,「偽作」には,「悪意の贋物(にせもの)」「善意の模作」という二種類のものがありうるのであって,後者の場合,小島先生の上記論法(一種の背理法)は妥当しないように思う。「善意の」模作者の場合は,もともと鑑賞者・信者を欺す意図などないから,顔貌を中核とする全体像が似ていれば足り,多少「円空らしくない」部分があったとしてもこだわらないことも十分に考えられるからである。
 具体的に敷衍すると,前者(「悪意の贋物(にせもの)」の作者)の典型例は,「贋物」を本物と見せかけ,相手を欺して売りさばくといった金儲けの手段として偽作を製造する者であり,後者(「善意の模作」者)の典型例は,例えば,画家や芸術大学の学生が定評のある名画を「模写」するのと同様,修験者が自らの修行の手段として,円空仏を模倣して造仏したり,習作した場合を指す。木喰のような独創的な造像に至らずとも,円空の作風をまねようとした遊行造像僧が尾張地区にいたかどうかは知る由もないが,そのような無名の遊行造像僧がいた可能性も否定できないのではないだろうか。丸山尚一氏の「円空風土記」によれば,北海道・道南・西海岸のくだりではあるが,「・・・円空のあとにもこの西海岸の鰊場に入りこんできた多くの遊行僧たちの修行の場であることがわかってきた。円空や木喰はその代表的な遊行造像僧であり,このほか,名前のわかっている遊行僧だけでも,円空と前後すると思われる時期に目定(大蓮),享保年間に貞伝(じょうでん)と自在法師,安永期に浄円,文化から文政にかけて寂導(じゃくどう)が渡道し,いずれも造像活動をしている。名の知れない僧や,名前すら知らさずに来ては去っていった僧たちの造像もかなりあったと思う。寺の片隅や仏壇のなかに,小さな像が忘れられたように置かれているのによく出会う。」と述べられている。
 本像についても,このような遊行造像僧によって,薬師如来像が「模作」された可能性は,なお残るのではないか。

(追記)小島先生から,目定(大蓮),貞伝,自在法師,浄円,寂導は,円空とは全く違う,「名前のわかっている僧は,それなりの数の像を彫っている」が,尾張地方では,そのような遊行造像僧の存在は全く知られてない,とのコメントをいただきました

 

第3の疑問点(足元の朽ち木についてはどうか?

 

「造像に際して材を選ばないというのは,円空の特質である」との小島先生の御指摘は,私も承知している。小島先生の論考では,この特質を裏付ける,いろいろな例を御指摘いただいているが,少林寺(三重県志摩市)の観音菩薩や,造仏に至らない岩屋観音堂(岐阜県美濃市片知)の自然木なども「朽ち木」を素材とした典型例であろう。

(左が,少林寺の観音,右の黄色矢印が,自然木)

 だが,「朽ち木」を素材とした円空仏であっても,また,たとえその朽ち木が著しく湾曲している素材の仏像であっても,真の円空仏は,底辺の方が太く,どこか安定感があるように思われる。これに対し,新発見の本像は,底辺がやや大きな空洞を形成しており,やや安定感を欠いているように思えるのである。ここに「円空らしくない」違和感を感じるのは,私だけであろうか。

 

(追記)上掲右写真は,小島梯次著「円空仏入門」からの引用でしたが,小島先生から,「自然木」は円空と関係がない,「自然木を御神体とする例と同じ空間にあるいう意味で同一画面上に写したのものです。」とのコメントをいただきましたので,上掲右写真に関するブログの主張部分は撤回します。

 

第4の疑問点(背面の蛇と宝珠の線刻については,「麗気灌頂の本尊」の図柄として,後人が彫った可能性があるとのことで,小島先生も研究課題とされている。

ちなみに,「麗気灌頂の本尊」の図柄は,次のとおりです。

 

以上のとおり,「薬壺の線刻」の問題等については,なお疑問を差し挟む余地があるように思われ,結局は,長年,円空仏新発見の情報提供の都度,実地調査に携わってこられた小島先生の経験的「直観」ともいうべき,新発見の経緯・状況が真贋の鑑別において重要性をもつことは否めないであろう(ここは,現物を見ておらず,経験不足である私の弱いところである。)。具体的には,これまで施錠され,開扉されることのなかった古い神社の祠堂が,偶々強風によって壊れ,修理を要するに至ったことで発見されるに至った経緯に照らすと,やはり小島先生のいわれるとおり本像が円空の真作である可能性が高いことは否定すべくもない。

 だが,率直に申し上げて,私は,実は,新発見の本像には,もう一つ,「円空らしくない」ところがあると考えており,保管場所が,長年,神社の祠堂に鍵が掛けられていた,という点にも引っ掛かりを感じる。「秘仏」でもないのに,「神社の」祠堂に意図的に隠されていた可能性はないか,という問題である(後述の「仮説=空想」に関係する。)。

 もう一つの「円空らしくない」ところというのは,私が提起した第3の疑問点と重なるが,「木取り」の問題である。
 すなわち,円空仏の多くは,素材として,丸太(円柱)をそのまま使用するか,円柱を縦割に2分,4分していくのが通常であり,いずれにしても,丸太を二分以上に分割した場合における水平断面の頂点は,木の年輪の中心に近いことが多いように思われる。千光寺の不動三尊像(下掲写真)や,正覚寺の十二神将像(下掲写真)がその典型例である。

(左と右下のように,千光寺の不動明王三尊は,一本の丸太を90度と45度×2に縦割されており,

 正覚寺の十二神将は,円の中心をとおるように分割されている。)

 

 ところが,本像の場合,薬師如来像の「薬壺」や「左手掌」の造形部分が平板化されている原因を考えるに,如上の木割りが行われておらず,丸太が4分(中心角90度)された後,一辺の中間点と対向する円弧の端とを結んだ線分で割っているようにみえる(下掲・模式図参照)。もし造像者が,最初からこのような丸太の割り方(使い方)をしていたとすれば,やはり理にかなっておらず,「円空らしくない」というべきではないだろうか。

 以上の考察を前提に,新発見の本像が「円空の真作」であることが客観的事実として動かないと仮定した場合,私などは,本像の生成機序について,次のような「仮説」を空想してしまうことになる。

(以下,空想)
 実は,本像は,円空が薬壺を左手に持った円空仏本来の薬師如来として造顕し,本件神社の祠堂で祭られていた。ところが,明治政府の政策「廃仏毀釈」によって,本像の円空仏についても,廃棄・破壊するよう神主に指令がくだった。そこで,神主(その代行者)は,泣く泣く,本像の薬壺部分めがけて,鉈で振り下ろし,本像をかち割った(これによって,底辺の安定感が失われた。)。が,その瞬間,その神主は,激しく良心が咎め,翻意し,その本像の破壊行為を中止し,本像を祠堂の奥深くに隠すことにした。その際,既に破壊してしまった薬壺については,その代わりに,像の胸部に薬壺を線刻し,像の背部においては,たとえ本像の隠匿が政府に発覚した場合においても,「仏像にみえますが,神像です。」といった弁明ができるように,「神仏習合」の象徴としての「麗気灌頂の本尊」を線刻しておいた。そして,外部から見つかりにくいように,祠堂には鍵をかけておいた。