北口雅章法律事務所

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長屋王が詠んだ歌の真意

古代日本では,非業の死をとげた皇子が少なくない。
有間皇子や,大津皇子は,彼らが,処刑される過程で詠んだとされる哀歌(挽歌)が万葉集に遺されているが(141番,142番,415番),長屋王の場合は,仕組まれた誣告者の讒言(ざんげん;虚偽告訴)のため,突如,晩歌を詠む間もなく,妻子もろとも自死に追い込まれた関係で,哀歌(挽歌)が遺されていない。

念のため調べると,万葉集に遺されている長屋王の歌は,5首ある。

このうち,次の一首(268番)について,歌の真意を読み解いてみたい。

[原文]吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 待不得而

「新日本古典文学大系」(岩波書店)によれば,
 読み下しと[大意]は,次のとおり。

わが背子(せこ)が 古家(ふるへ)の里の 明日香には、
 千鳥(ちどり)鳴くなり 待ちかねて

[大意]あなたの旧宅がある明日香の里では,千鳥が鳴いている。妻を待ちかねて。

さて,このような[大意]で,意味が通じるであろうか?
意味不明といわざるを得ない。注釈者も,「わが背子」が誰かは不明としている。
実は,結句の諸本原文では「嶋待不得而」となっているにもかかわらず,注釈者が,これでは意味が通じないと勝手に思い込み,「嬬」(妻の意)の字が「嶋」に誤ったと考えられ,待不得而」を「待不得而」に改変されてしまっていたのだ。

これに対し,旧版の「日本古典文学大系」(岩波書店)によると,
原文に忠実に,次のとおり読み下されて,[大意]が述べられている。

[原文]吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 待不得而

わが背子(せこ)が 古家(ふるへ)の里の 明日香には、
 千鳥(ちどり)鳴くなり 待ちかねて

[大意]あなたの古い家がある明日香の里には,千鳥が鳴いているのが聞こえる。美しい林泉を求めかねて。(都が移って家々が荒れ果ててしまったから)

ちなみに,上記歌には,「右,今案(かむが)ふるに,明日香より藤原の宮に遷(うつ)り後,この歌を作るか」との記載がある(これは,藤原京の後,平城京に遷都された後に詠まれた歌ではない,という意である。)。
しかしながら,上記[大意]でも,「長屋王の故郷の歌一首」にしては,いかにもぼやけた意味に思える。

 そこで,「あるいはひょっとして,(我が弁護士業界では,万葉集の研究家として知られる)上野正彦先生(第二東京弁護士会所属の弁護士)【註】が,上記歌の意味を解読されているかもしれない。」と思い,購入しながらも「積ん読」してあった,上野先生の著書「万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く」(学芸みらい社)を紐解いてみたところ,載っているではないか。

【註】日弁連の月刊誌『自由と正義』2015年6月号掲載の「ひと筆」において,上野先生が「1300年の謎に挑む―万葉集の難訓歌を訓む―」と題するエッセイを載せておられ,「これは凄い!」と思い,御著を「積ん読」してあった次第。

 

上野先生の解釈は,明解である。
上野説によれば,「わが背子(夫)」とは,「軽皇子(かるのみこ)」(後の文武天皇)のことを指し,「古家(ふるへ)」は,軽皇子の亡父・草壁皇子(皇太子)の「嶋の宮」(池に嶋があり,千鳥が飛来していた宮殿)を指す。持統天皇が,694年,飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都した当時,長屋王は19歳,従弟の軽皇子は数え12歳で,いずれも,明日香が郷里であった。ちなみ,草壁皇子は,689年に早死にしている。以上から,上野説の[大意]は, 藤原宮遷都後,故郷の明日香を訪れた長屋王が,荒れ果てた「嶋の宮」を見て,昔,皇太子・草壁皇子の宮殿として復活して欲しい,それを待ちかねていると,今もそこに飛来してきて鳴いている千鳥の鳴き声に託して(復興祈願を)歌っている,という理解である。
 この上野説の理解は,後段は「令和」の元号を考案された万葉集学者・中西進先生の解釈(「荒廃した(草壁皇子の)庭園に山斎(しま)がふたたびできるのを待ちかねて」)と同じものであるが,上野先生が独自に「わが背子(夫)」を「軽皇子(かるのみこ)」と想到・理解されたのは,慧眼であると思われる。
 上記上野説の理解は,新旧・岩波注釈書の理解に比べ格段に明解な解釈というべきである。

 では,長屋王は,何故,新京(藤原京)に遷都されたにもかかわらず,荒れ果てた旧宮(実は,旧都)の復興を望んだのであろうか。単なるノズタルジックな感傷(懐古趣味)から,そのように詠んだのであろうか。

 上野先生の上記著書では,その辺りの真意については,言及がなされていない。法律家としては,根拠のない想像をめぐらすことは客観性に欠けるとお考えだからであろう。

 もっとも,上野説によると,「長屋王は,草壁皇子が亡くなった後,太政大臣となって朝廷の実力者となった高市皇子の子であり,また軽皇子は持統天皇により次期皇位継承者と期待されていましたので,長屋王と軽皇子の二人の年齢差は7歳もありますが,この二人は次世代を担う人物として,持統天皇から嘱望され,互いに親近感を懐いていたものと思われます。」と述べられ,このような理解を前提に,「長屋王は,この歌を詠んで持統天皇に歓迎されたと思います。」と述べておられる。

だが,私の理解は違う。「長屋王と軽皇子の二人の年齢差は7歳もありますが,この二人は次世代を担う人物として,持統天皇から嘱望され,互いに親近感を懐いていたものと思われます。」,「長屋王は,この歌を詠んで持統天皇に歓迎されたと思います。」という理解には賛同できない。

 別のブログで述べる予定だが,持統天皇(女帝)は,「相当のタマ」であって,上野説のような甘っちょろいガラの人物ではないと思う。長屋王は,後に謀殺されてしまうが(その黒幕についても,別のブログで自説を述べたい。),持統天皇からも,軽皇子からも,将来の天皇として強力なライバル関係にあったと考えられ,むしろ持統天皇においては,長屋王の権勢に危惧感を抱いていた可能性も十分にあるように思われる。具体的に敷衍すると,長屋王は,その出世街道まっしぐらの栄達に照らし,軽皇子よりも格段に有能で,周囲の信望の厚い人物であったと想像され,父方の祖父が天武天皇で,母方の祖父が天智天皇であり,さらに草壁皇子(皇太子)の娘(吉備内親王)を妻としているといった,家柄的にもオールマイティの実力者として,天皇の地位・人格を狙えた可能性があることに鑑みると,持統天皇が(途中から)彼を「目の上のタンコブ」として疎んじるようになった可能性も否定できないように思われるからだ。

 思うに,長屋王は,実は,藤原宮が気に入らなかったのではないだろうか。
 藤原京と,飛鳥浄御原宮(旧都)との違いは,いくつか指摘されているが,宮人達の生活面での一番大きな違いは,従前(旧都)の場合,皇位継承候補を含む有力な皇族や中央の豪族は,大王宮とは別に,各自の宮(皇子宮)や邸宅を構えていたのに対し,藤原京においては,宮の周囲に区画(京城)を設け,碁盤目状に区画された土地上で,皇族・豪族に宅地が配給され,その集住がはかられたことから(佐藤信「律令国家の形成」『大学の日本史①』参照),長屋王からみれば,「潤いの乏しい」都市生活を余儀なくされ,窮屈な思いをさせられている,と感じていたのではないか。
 このような不満を背景に,「旧都の方がよかった」という思いから,官僚的(律令国家的に)整備された藤原京をあり方を「暗に」批判する気持ちをもって,上掲の歌を詠まれたのではないか。近時,長屋王が自死を余儀なくされたときに住んでいた平城京の邸宅跡が発掘され(1998年),発見された約4万点もの木簡から窺われる彼のセレブ生活を想像すると(恵美嘉樹著「日本古代史紀行」参照),長屋王の上記「不満」の抱懐という私の理解は,あながち外れてはいないように思うのだが。