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「有間皇子」の回想歌(万葉集)をめぐって

万葉集第二巻では,“ 悲劇の皇子 ” 有間皇子の挽歌が,五首ならべられている。

有間皇子は,孝徳天皇の皇子であるが,657年(斉明3年),暗殺されるのを怖れたのか,病と偽って,牟婁((むろのいでゆ)温泉(現在の白浜温泉)に出向いて,その地を激賞した。そこで,658年(斉明4年),斉明天皇は,紀州・湯崎(ゆめさき)温泉に湯治のため行幸した。同年11月,留守官の蘇我赤兄が,有間皇子に対し,斉明天皇の失政を非難したため,有間皇子は,それを真に受け,赤兄とともに翌年の挙兵を策謀しようとしたところ,赤兄は一方的に反逆計画を中止して裏切り,斉明天皇に対し,有間皇子の謀反を知らせた。かくて,有間皇子は,同月5日,斉明天皇への反逆を企てた嫌疑で,蘇我赤兄に捕らえられ,斉明天皇の行幸先に連行され,皇太子・中大兄皇子(当時27歳。後の天智天皇)による尋問を受けた。中大兄皇子が謀反の理由を問うと,有間皇子は,「天(=斉明天皇)と赤兄のみが知る。私は知らない。」と答えたという。ところが,有間皇子は,中大兄皇子の指示で,藤白坂まで連れ戻されて処刑(絞首)された(享年19歳。以上,日本書記)

以上の経緯からすれば,有間皇子は,中大兄皇子が蘇我赤兄を使った仕組んだ謀略であることは明らかであり,有間皇子を政権を狙える場から排除したものと考えられる。だが,ここで問題なのは,斉明天皇が,その謀略に絡んでいたか否かである。尋問者=糾問者=検事=中大兄皇子においては,少なくとも形の上で,裁定者=斉明天皇(自身の母親)の裁可を仰いだはずであって(有間皇子の上記発言も,斉明天皇が共謀に加わったことを承知していたように読める),「日本古代,犯罪の陰に女あり」の経験則からすると,少なくとも黙示の承諾があったことは明らかであろう。

挽歌五首のうち,最初の二首は,有間皇子が自ら傷心の思いで詠んだとされる有名な歌である。

岩代の浜松が枝を引き結び,真幸(まさき)くあらば,また帰り見む(2-141)
[大意]岩代(和歌山県日高郡岩代村;聖地)の浜松(海岸沿いの断崖に生えた松)の小枝を今引き結んで幸いを祈るのだが,もし命があって戻れることがあったら,これを再び見よう。

家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
[大意]自宅であれば器に盛るべき御飯を,傷心の旅の途上であるから,椎(しい)の葉に盛ることを強いられていることよ。

これに続く挽歌が,「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の結松(むすびまつ)を見つつ,哀しんで詠む歌二首」

岩代の崖(きし)の松が枝結びけむ人はかへりてまた見むけむかも(2-143)
[大意]岩代の断崖の松の枝を結んで無事を祈ったというお方(有間皇子)は,立ち帰ってまた見ることができたであろうか(できなかったのよね)

岩代の野中に立てる結び松,心も解けず古(いにしへ)思ほゆ(2-144)
[大意]岩代の野中に立っている結び松の枝は今も解けずにあるが,それを見る私の心も解けず,昔のことが哀しく思われる

これに続けて,山上憶良(おくら)が追加した歌(2-145)が掲載されているが,その初句である「鳥翔成」が古来難訓とされ,諸説ある。

鳥翔成有り通いつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

この「鳥翔成」は,上野正彦先生(弁護士)によると,
「鳥飛びて」と読むべきとのことで,上野説によれば,「鳥は,地界から天界までを行き来することができる存在として,古代の世界各地の民族により畏敬されて,人間の霊を天上に運ぶと信じられて」,古代日本でも,鳥が霊魂の運搬者と考えられていたことは,折口信夫先生(民俗学者)が実証されているとのこと。したがって,
[大意]は,大空高く飛ぶ鳥に(有間皇子の霊魂は)運ばれて,いつも通って来ては,松の枝の結びを見ている。人は,そのことを知らないが,松はきっと知っているだろう。

実は,万葉集には,もう一首,有間皇子に関連する歌がある。

斉明天皇が紀州の温泉に行幸した時,額田王の作った9番の歌だ。
古来,難訓歌とされ,特に初2句が難しいとされている。

[原文]莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

上野正彦先生(弁護士)によると,
「鎮まりし影な萎えそゆけ,我が背子が,い立たせりけむ 厳(いつ)橿(かし)が本」と読み,ここで「我が背子」とは,斉明天皇からみた親しい身内の男性,すなわち有間皇子のことを指すという。
[大意]は,上野説によると,「有間皇子事件で鎮められた私の愛(いと)しい有間皇子が,わが影は決して萎えずにゆけと,護送の途上,この神聖な橿の樹の下にお立ちになって願ったことであろう,との斉明天皇の回想歌です。」(「万葉集難訓歌」138頁)。

「莫囂圓隣之」を「シズマリシ」と読んだのは,土橋利彦氏・澤潟久孝氏らの見解を採用したものであるが,この先生方は,これを「静まりし」の意味で捉えていたのに対し,上野説は,「(霊魂が)鎮まりし」に読み替え,その主体である「我が背子」を有間皇子と捉えており,このあたりは,流石だなあと感心する。

だが,斉明天皇(女帝)=「有間皇子謀略・黒幕説」を採る私としては,この歌が「有間皇子に対する斉明天皇の心からの鎮魂歌である」とする上野説の理解は,やや素直すぎて,違和感を覚える。この歌を詠んだのが①「額田王」であり,②同女が,「中大兄皇子と大海人皇子との三角関係」を読んだ才媛であり,③本歌の「七兄爪」の「兄」は,明らかに「中大兄皇子」の「兄」と,「蘇我赤兄」の「兄」を意識していることに加え,④この歌が,1-7,1-8に続く1-9であり,いずれも「回想歌」であること照らすと,裏の意味が隠されているように思えてならない。
 すなわち,この歌の表向きの[大意]は,「囂(かまびすしい)」=不穏な動き(有間皇子の皇子の反逆行為を指す)が鎮圧された(「莫(なし)」にされた)有間皇子よ,萎えずに行きなさい,この神聖な橿の木の下で「五可新何本(いつかしがもと)」=厳[いつ]橿[かし]が本[もと]),あたなは立っていたのですね「射立為兼(いたたせりけむ)」)といえよう。
 だが,裏の意味は,「中大兄皇子」と「蘇我赤兄」が仕組んだことは,斉明天皇も承知していました。だからといって,有間皇子よ,そんなにがっかりしないで(影な萎えそ行け)。いつか,あの世で(斉明天皇と)お会いすることでしょう「五可新何本(いつかあはなむ)」)・・・あたりかな。