北口雅章法律事務所

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円空は,多分,中宮寺にも立ち寄っている。

円空は,法隆寺に足跡を遺しているが,中宮寺には足跡を遺していない。
だが,多分,間違いなく,円空は,中宮寺をも参詣していると思う。理由は,後述する。

法隆寺は,聖徳太子ゆかりの寺である。
 聖徳太子が建立した斑鳩寺を隣接地に移設したといわれているが,梅原猛説によれば,暗殺された聖徳太子の怨霊を鎮魂するために建立されたとされる。それはともかく,円空は,寛文11年(1671年)法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)にて,法相宗の血脈(本尊・奥義・秘伝等)を授けられたとの文書が遺されており,また,自ら大日如来像を造顕して法隆寺に遺している上,東海地区でも,幼少時の聖徳太子像がいくつか造顕されていることから,円空は,聖徳太子について,何らかの仏縁を覚知し,法隆寺に逗留していたことは明らかである。

 一方,中宮寺は,聖徳太子が,亡母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ;用命天皇皇后)の供養のために建てたといわれる尼寺であるが,法隆寺の東隣にある。地理的に近いから立ち寄ったであろう,というだけでは,もちろん,小学生レベルの考察である。
 私が,円空が中宮寺にも立ち寄ったのではないか,と想う理由は,円空の自刻像ではないかといわれている岐阜県関市伊勢町の神明神社旧蔵の善財童子像の原型モデルが,実は,中宮寺所蔵の文化財の中に存在するのではないか,と想うからである。

神明神社旧蔵・円空作「善財童子」(写真:後藤英夫)

 

 すなわち,聖徳太子の妃(きさき)の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)は,亡夫を供養する目的で,聖徳太子が天寿国(天国)に迎え入れられた様子を描いた,日本最古の刺繍を作らせ,これを中宮寺に遺している。この刺繍の現存する断片こそ,国宝「天寿国繍帳残闕(ざんけつ)」であるが,この中で描かれている合掌した僧侶像を立体化すると,円空の善財童子像になるように想えてならないのである。